71.荀子 現代語訳 王制第九 十二・十三章

十二章

 一つの規則に則って煩雑なことを行い、一によって万を行い、始まれば終わって終われば始まって、それはあたかも環に端がないかのようである。もしも、この術を捨てて用いないならば天下は衰えるであろう。

 天地というものは生命の始めである。礼と義というものは治の始めである。君子は礼と義の始めである。これを修めてこれを習い、これを積み重ねてこれに致すことを好むことが君子であることの始めである。

 だから、天地は君子を生んで、君子は天地を知り治めるのである。君子なる者は、天地の参(同化していること)であり、万物の総であり、民の父母である。君子がいなかったら、天地が知られることもなく、礼と義にも統一と伝統がなく、上には君主と師との道もなく、下には父と子の道もない。こういった状態を至乱という。

 君臣・父子・兄弟・夫婦・の道は、始まれば終わって終われば始まって、天地の自然の理と同じく、万世永久に同じである。こいうったものを大本という。だから、裳祭と朝聘と軍事とはそこで行われる儀式の形式は違えどもその大本は一である。貴賤と殺生と与奪とも全く関係なく反対のことであるようだがその大本は一である。農夫が農夫たることと士が士たることと職人が職人たることと商人が商人たることも違ったことのようであるけれどその大本は一である。

十三章

 水と火には気があるけど生がなく、草木には生があるけど知がなく、禽獣には知があるけど義がない。そして、人には気もあり生もあり知もあり義もある。だからこそ、人は天下で最も貴いのである。

 力は牛に及ばず走ることは馬に及ばない、そうであるのに、牛馬が人のために用いられているのはどうしてか。答えて曰く、人は群れることができて彼は群れることができないからである。では、どうして群れることができるのか。答えて曰く、分限というものを定めているからである。では、どうして分限がよく定められているのであるか。答えて曰く、義があるからである。こういったことであるから、義によって分限を定めれば調和が生まれ、調和が生まれれば一つになることができ、一つになることができれば力が多く、力が多ければ強いということであり、強ければ物に勝つ(万物を利用する)ことができる。

 このように、一つとなって大きな力を保持しているから、家の部屋で落ち着いていることができるのだ。だから、四季の序列に従って万物を利用し、天下のものを兼ねて自分の便利に役立てることができるのには一つの理由しかない。分限と義というものを心得ているからである。

 だから、人は、生まれて群れを成さない(社会を形成しない)ということはできない、群れても分限がなかったら争うこととなり、争えば乱れ、乱れれば離ればなれとなり、離ればなれとなれば弱く、弱ければ物に勝つ(万物を利用する)ことができない。これでは家で落ちついていることはできない。これが、礼と義から少しも離れてはならない理由である。

 礼と義によって親に仕えることを孝といい、礼と義によって兄に仕えることを弟といい、礼と義によって上に仕えることを順といい、礼と義によって下を使うことを君道という。君道とは人をうまく群れさせることである。君道が道理に当たっていれば、万物も皆その宜しき所を得て、家畜でさえも長生きして、すべての生命がその寿命をまっとうできるであろう。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

易経・家人より「家人は、女、位を内に正し、男、位を外に正す。男女正しきは、天地の大義なり。家人に厳君ありとは、父母の謂いなり。父は父たり、子は子たり、兄は兄たり、弟は弟たり、夫は夫たり、婦は婦たり、而して家道正し。家を正しくして天下定まる」

論語子路第十三より「子路曰く、衛の君、子を待ちて政を為さば、子まさになにをか先にせんとする。子曰く、必ずや名を正さんか。子路曰く、是あるかな、子の迂なる。なんぞ其れ正さん。子曰く、野なるかな由や。君子はその知らざる所に於いては蓋しケツ如す。名正しからざれば則ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼薬興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足をおく所なし。故に君子のこれに名づくるや、必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子はその言に於いては、苟もする所なきのみ」

■君子は群れして党せず。力を一つにするのでも、礼と義によって秩序ある社会を形成することと、利と欲によって一時的に徒党を組むことは、大違いである。調和するのにでも、礼と義によって和しても流れることがないのと、利と欲によって同じて流されるのとでは大違いである。礼と義が無ければ馴れ合いでしかなく乱れ、礼と義が有れば和して治まるのである。