歩き瞑想をしていて

今日は、前に記事に書いた、「近くの目標を定める」ということに特に気を付けて歩き瞑想をしてみた。そしたら、かなり疲れた。が、いろいろ分かったこともあった。

前は、百メートルほど先のわりと近いところに目標を定めていたのだけど、今日は、一気にかなり遠いところ300メートルほど先に視点を定めてみた。同じことに集中する時間が増えたので、当然疲れることがわかった。

次に分かったこととして、自分には「緊張感」というものがなかったのだな、ということがわかった。緊張はし過ぎてはならないけれど、ある程度は常にしていた方がいい。緊張しないということは、散漫ということであり、散漫ということは心が動き易いということである。自分の心を自分の制御下に置くだけの緊張感は維持するようにしないとならない。

論語に「簡に居て簡なれば、これ大簡ならんか」(おおまかで大らかなことはいいことだけど、大まかな心でさらに大まかに振る舞うならば、大簡、いい加減や散漫ということになるのではないか)とあったのや、「威あって猛からず」とか「君子の三変」などのことを思い出した。あと、佐藤一斎の「君子は火なり、衆人は火の恐るべきを知るも、またその親しむべきを知る」というのも思いだした。当然、荀子勧学第一の、カニとみみずの話も思いだした。

最近は、いつも見ていたアオサギ君が居なくなって、新しくシロサギさんが散歩コースに居るようになっていた。今までの散漫な状態のときは、このシロサギさんが、私との距離を必ず3m程度(私が急に捕まえようとした場合ギリギリ逃げれる距離)としていたみたいだった。ちなみに、この3mというのは、野生動物にしては、相当接近した距離であると思う。しかし、このように心持を少し変えただけで、急に、15mの距離を保つようになった。恐らく同じ個体と思われるので、私の心持の変化を何らか感じ取って、そのように行動が変わったように思われる。要因として考えられるのは、足音の変化であるのだけど、いずれにせよ、人間の気持ちが変わったことを、野生動物には感じ取る能力があることが分かった。

ちなみにこのシロサギさんは、目が青いように見えて、優雅でかわいらしい。