66.荀子 現代語訳 王制第九 五・六章

五章

 衛の成候と嗣公は、搾取と計略の君主であって、民衆の心を国に結びつけることには至らなかった。鄭の子産は、民衆の心を国に結びつけることはできたのだけど、政治をするには至らなかった。斉の管仲は政治をすることができたのだけど、礼を修めるには至らなかった。

 だから、礼を修めることができれば王であり、政治をすることができれば強く、民衆の心を国に結びつけることができれば安んずることができ、搾取していれば亡ぶこととなる。(●礼を修むる者は王たり、政を為す者は彊く、民を取る者は安く、聚斂する者は亡ぶ)

 この故に、王者は民衆を富ませ、覇者は士を富ませ、なんとか保っている国は大夫を富ませ、亡びるべき国は自分の懐と国庫を満たすのである。自分の懐が富んで国庫は既に一杯になっているのに百姓は貧しいのならば、このことを、上はあふれていて下は涸れると言い、城にこもって戦えば守ることはできず、外に打って出てれば戦うことすらできない。このようであるならば、立ちどころにして傾覆滅亡してしまうであろう。

 つまり、自分が財産を集めれば亡んで、敵は民衆を得て強くなる。搾取というものは、戦争を招いて敵を肥やし、自国を亡ぼして自分の身を危うくする道である。だから、明察の君主はこの道を踏まないのだ。

六章

 王者は人の心を奪い、覇者は国を奪い、強者は地を奪う。(●王はこれが人心を奪り、覇はこれが与国を奪り、彊はこれが地を奪る)

 人の心を奪うとは、諸侯を自分の臣下とすることである。国を奪うというのは、諸侯を友とすることである。地を奪うとは、諸侯を敵とすることである。だから、諸侯を臣下とするなら王者であり、諸侯を友とするならば覇者であり、諸侯を敵とするならば自分が危うくなるのである。

 そもそも、強を用いるとは、相手の城が堅固に守られて、相手の兵も奮起して戦っているのに、自分は力を使うことによってこの相手に勝つことである。このようにするのならば、相手の民衆を傷つけること、必ず甚だしいものとなる。相手の民衆を傷つけること甚だしいのならば、その民衆がこちらを憎むこと、必ず甚だしいものとなる。この敵の人達がこちらを憎むこと甚だしいのならば、この人達はこちらと闘って怨みを晴らそうと日々思うようになるだろう。

 さらには、敵の城が堅固に守られて、敵の兵も奮起して戦っているのに、この上で力によって敵に勝つならば、こちらの民衆が傷つくことも必ず甚だしいものとなる。こちらの民衆が傷つくこと甚だしければ、この民衆が君主のことを憎むこと、必ず甚だしいものとなる。自国の民衆が自分の君主を憎むこと甚だしいのならば、この人達は自分のために戦うのを日々嫌がるようになろう。

 このように、敵国の民衆は日々にこちらと闘うことばかりを考え、自国の民衆は日々に自分の君主のために戦うことを嫌がるようになる。これこそが、強者がかえって弱い理由である。新たな土地を獲得しても民衆は去っていき、煩いごとばかりが多くて功績は上がらず、守る場所は増えるのだけど守る人は減っていく。これが、大者(領地の広い国)がかえってその土地を削られていく理由である。

 諸侯は、交わり接するたびにお互いがお互いを怨むこととなり、お互いが敵同士であることを忘れない。いずれの諸侯も、強大国の隙を窺って強大国の疲弊したところを狙うようになる。こうなると、強大国の滅亡が目に見えるときとなる。

 こういったことであるから、強道のことを本当に知っている者は、表面的に(つまり、敵に打ち勝つことにより)強くなることに務めない。控えめにして時の王の命令を用いるようにし、自国の力を完全にして徳を安定したものにする。自国の力が行きわたった完全なものとなれば、諸侯によって弱めることはできず、徳が安定すれば、諸侯によって領地を削られることもなくなる。天下に王覇の国となるにふさわしい盟主がないならば、常に勝つことができる。これが真の強道を知る者である。(●力全ければ則ち諸侯も弱むること能わず、徳の凝まれば則ち諸侯も削ること能わず、天下に王覇の主の無きときは則ち常に勝つ、これ彊道を知る者なり)

 彼の覇者はこうではない。

 田畑を開墾して穀倉を満たして生活必需品のような備品が行きわたるようにし、人材を広く募集することを謹んで才能と技量のある人だけを択んで登用し、こうしてから表彰や昇進によってこの人たちを少しずつ導き、刑罰は厳しくしてこの人たちを正すのである。

 その後、亡びそうな諸侯に関してはこれを存続させ、絶えてしまった諸侯には後継ぎを立てて、弱い諸侯を守って武力を禁じ、こうして天下を統一するような下心がないならば、諸侯はこの覇者に親しむようになる。友としての対等な立場を保って敬いを忘れず諸侯に接するならば、諸侯はこの覇者を歓迎することなる。

 しかし、諸侯が親しむのは、あくまで天下を統一する下心が見えないからであり、もしも、少しでもそういった下心が見えたのならば、諸侯はこの覇者を疎んじることになるだろう。そして、諸侯がこの覇者を歓迎するのは、友として対等に接していることにあるのであり、もしも、こちらを臣下にしようとする下心が見えたのならば、諸侯は離れてしまうだろう。

 だから、その併合しようという気がないことを行動で明らかにして、その友としての対等の立場を信頼あるものとする。天下に王者となるにふさわしい国がなければ、常に勝つこととなる。これが真の覇道を知る者である。(●其の併わさざるの行を明らかにし、其の友敵の道を信にす。天下に王の主の無きときは則ち常に勝つ。是れ覇道をしる者なり)

 斉の閔王が五国による合従軍によって破られ、斉の桓公が魯の荘公に脅されたのには、ここに述べる以外の他の理由は他にない。つまり、王者の道が備わっていないのに心の内では王者となることを望んでいたからである。

 かの王者はこのようではない。仁も遥かに秀でており、義も遥かに秀でており、威も遥かに秀でている。仁が遥かに秀でたものであるから天下に親しまない者はなく、義が遥かに秀でたものであるから天下に貴ばない者はなく、威が遥かに秀でたものであるから天下に敢えて敵になる者はいない。敵となることのできない威を備えることで、人の心を捉えて離さない仁と義の道を行う。

 こういったことであるから、戦うまでもなく勝ち、攻めるまでもなく得て、兵士が疲れることもなく天下が服することとなる。これが王道を知る者である。(●戦わずして勝ち攻めずして得られ、甲兵労せずして天下は服す。是れ王道を知る者なり)この三具を知っている者は、王者であろうと思えば王者であり、覇者であろうと思えば覇者であり、強者であろうと思えば強者である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■あまりにも理路整然としているので、単なる荀子絵空事の理論のようにも思えるけれど、これは、現代語訳した私の感想として、荀子の正確で怠りのない歴史確認に裏打ちされたものであることが分かる。

■これは、国に限らず人間のことにも通じるであろう。この王道をそこまで何とか応用できるようにしたいものである。あと、もうひとつ思ったのは、王者とは比較の問題でもあるということだ。だから、暴君や暴虐の人ばかりの中で、少し仁義に厚いのならば、すぐにこの王道に入ることもできる。かと言って、その王道が何かと言うことは弁えていないとならないということだろう。

■王者も強者である時もあり、覇者である時もある、つまり、ものごとには順番があることを、はっきりとではないけどさりげなくここに表現している。