58.荀子 現代語訳 儒効第八 八章

八章

 大衆の俗な見解に満足して、それに従うことを善だと思いこみ、財貨のような霧散するものを宝だと思いこみ、ただ生きているだけでそれが最高の道だとするのは、民の徳というものである。

 行いは法則があって正しく、目標を保持すること堅く、欲によって外から入る情報を取り違えることもない、このようであるならば剄士と言うべきである。

 行いは法則があって正しく、目標を保持すること堅く、聞いたことを修正することにより己を矯正し、言うことは当を得ることが多いのだけどまだ完全に全てを知るわけではなく、行いは当を得ることが多いのだけど完全に安心できるものではなく、考えや推測も当を得ることが多いのだけど完全に細かいことまで的確ではなく、上はその高いものを大として、下は自分に及ばない者を教え導く、このようであるならば篤厚の君子と言うべきである。

 百王の法を修めること白と黒とを弁別するかのようで、その時の変化に対応して問題を解決すること一二を数えるかのようで、礼を行って節度を保ってそのことに安んじること四肢を自然に動かすかのようで、時節に従ってうまく仕事をこなし功績を残すこと季節を告げるかのようで、政治をうまく取り仕切って民衆を安心させることの善いこと、相手は億万人なのにあたかも一人を相手にしているかのようである。このようであるならば聖人と言うべきである。

 湧き出る泉のように理が備わっていて、厳しくしっかりと己を慎み、どっしりとして終始けじめがあり、延々と同じことを続けて飽きずに倦むことなく、楽しみを忘れないで道を守って危険に陥ることなく、太陽で照らし出すかのように便益と知識を明らかにし、物事をとりまとめれば無駄なくわかりやすく細かいことまですっきりとまとめ、優雅に垂れ下がる帯のように心地よい飾り気があり、盛大にして和やかに人の幸福を楽しみ、心から心配して他人の悪事を恐れる。このようであるならば聖人と言うべきである。

 これは、その道が、一から出ているからである。では一とは何なのか。答えて曰く、それは神を執り行うことが堅固なことである。では神固とはどういうことなのか。答えて曰く、ことごとく全てが善であまねく全てが治まることが神であり、万物をもってしても傾けるのが困難であることを固と言うのだ。このように、神にして固いことを聖人と言うのだ。(●尽く善にしてあまねく治まるを神と謂い、万物もこれを傾くるに足ること莫きを固と謂う。神にして固なるを聖人と謂うなり)

 聖人とは、全ての道が集約される管である。天下の道は全てこの管を通って、百王の道もここに一つ集まる。だから、詩書礼楽の道もここに帰するのである。詩はこの志を言い、書はこの事を言い、礼はこの行いを言い、楽はこの和を言い、春秋はこの微を言う。

 だから、詩経の国風が奔放に流れないのは、この聖人の働きによってうまく調節されたからであり、詩経の小雅が適度に飾り気があるのは、この聖人の働きによって適度に飾られたからであり、詩経の大雅が雄大であるのは、この聖人の働きによってその雄大さが尽くされたからであり、詩経の頌が最も優れたものとなっているのは、この聖人の働きによって通ずるところがあるからである。

 天下の道は全て聖人に極まり、これに随い集まれば栄えて、これに背いて離れれば滅びる。これに随い集まりながら栄えず、これに背いて離れているのに滅びない者は、昔から今に至るまで未だかつてないのである。(●天下の道も是に畢き、是れに郷う者は臧く、是れに倍く者は亡ぶ。是れに郷いながら臧からず、是に倍きながら亡びざる者は、古えより今に及ぶまで未だ嘗て有らざるなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

詩経書経は読んだことがないので読まないとならないなぁと思う。それにしても、荀子の描き出す聖人や君子は、具体的ではっきりしていると思う。これだけ鮮明に目標を描き出すことは難しいことである。

■聖人の道に随う、背くということで、事実悪いことをして栄える人が居るし、善いことばかりして亡びる人も居る。と思われる方もあるかもしれないけれど、前章とかで説明されたように、それはある一定の視点から見た「見せかけの結果」でしかない。背いて栄えているように見えても、心が安心していなかったら本当に栄えたのでないし、随って亡びるように見えても、目的が達せられれば亡びたわけではないのである。また、善い方の場合は、それが本当の道に適っていないなら、いくら「善いと思っていること」をしても意味が無い。だから、学ぶことによって「本当に善いこと」を知る必要があるのである。