57.荀子 現代語訳 儒効第八 六・七章

六章

 だから、君子が、社会的地位が無くても貴く、給料は無くても富み、言葉が無くても信用でき、怒らなくても威風があり、困窮し行き詰っていても栄え、一人で居ても楽しみを忘れないのは、これこそ、至尊・至富・至重・至厳の性情の全てがここに備わっているからなのである。(●君子の爵なけれども貴く、禄なけれども富み、言わざるも信あり、怒らざるも威あり、窮処するとも栄え、独居するとも楽しめるは、豈れ至尊至富至重至厳の情、挙な此に積むが為めならずや)

 だから言うのだ。名声(貴名)というものは、媚びへつらって争うようなものでなく、ハッタリと見栄で保つことはできず、権力や権勢を使って脅し取ることはできない。必ず誠があり誠の実力があって、そうして名声を得ることができるのだと。(●貴名は、比周を以ては争い取るべからず、誇誕を以ては有すべからず、勢重を以ては脅かし取るべからず、必将ず此れを誠にして然る後に成就す)

 名声を争えば逆に名声を失うし、名声を譲るならば本当の名声を得ることができる。後に引きさがって従えば積むことができ、見栄とハッタリで飾るなら虚しいだけである。だから君子は、内を修めることを努めて為して外では名声を譲り、徳を身に積み上げることを努めて為して後に引きさがって従おうとする。(●君子は務めて其の内を修めてこれを外に譲り、務めて徳を身に積みてこれに処するに遵遁を以てするなり)このようにするのならば、本当の名声(貴名)が起こることは、太陽や月が出るように当然のこととなり、天下の人がこの人に応じること電光石火の速さとなるのである。

 このようであるから、君子は、隠れていても顕われ、微かであるのに明らかとなり、辞して譲るのに人に勝つのである。詩経 小雅・鳴鶴篇に「深い森の奥のほう 鶴はたたずみ一人鳴く その声遠くありしとも 高く天まで鳴り響く」とあるのはこのことを言ったのである。

 これに対して、つまらない男は、人に媚びへつらっては名声と仲間を失っていき、醜い争いをしてはそれを皆から白い目で見られ、疲れ果てて安楽を求めているのにどんどんその身が危うくなる。詩経 小雅・角弓篇に「不善不良のかの人々 お互いけなして怨みあう 遠慮もしなけれりゃ 譲りもしない 結局自分が亡びていくよ」とあるのはこのことを言ったのである。

七章

 こういったことであるから、才能もないのに大きな仕事をすることは、大して腕力の無い人が重い荷物を背負うようなことであり、ただくじけて折れしまうようのである。単なる愚か者でしかないのに、賢い人をけなしてその人より上であろうと見せかけるならば、これは背中が異様に曲がった醜い体つきの人が、高いところに登って目立つことを好むようなもので、多くの人から指差されて嘲笑の的となるのである。

 だから、明察の君主が徳によって位を授けることは、乱れを起こさないためであり、能力のある忠臣が進んで大きな仕事を引き受けようとすることは、能力をいかんなく発揮するためなのである。序列がしっかりと定まっていて、能力が発揮されることは、最高の状態である。(●分の上に乱れず、能の下に窮まらざるは、治弁の極みなり)詩経 小雅・采菽篇に「左右を治めて弁別し 左右は服して随うなり」とはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■全く荀子の言うとおりである。以前、「ノー」と言うことは信頼を高める。というような言葉が流行ったような記憶があるが、まさに何ごとも全てその通りで、できないことをできると言えば、事実が露見した時に恥をかくこととなるし、それより何より信頼を失うこととなる。

■譲ることは、東洋独特の概念かもしれないとも思う。だが、これは、キリスト教にもある概念である。福音書には「最後の者が一番となることが多い」というとても意味深な表現によって書き出されている。例えの、少し具体的な話もくっついていたのだが、思い出せない。