ヘロドトス 歴史 を読んでいて3

最近、夜寝る前に、ヘロドトスの歴史を読むようになっている。

やはり面白い。

こういった点が面白い、というのを、具体的に挙げると、

1.歴史的人物を英雄でなくて人間として描き出している

例えば、昨日読んだところだと、アケメネス朝ペルシアのカンビュセスを「気狂いとしか思えない」と表現している。学校の世界史などで勉強する限りだと、カンビュセスは、エジプトを領土に加えた英雄のようにしかみえない。だけど、ヘロドトス的に言えば姦繆施酢:破廉恥で勘違いの多い酢っぱいことばかりする人、ということになる。このほかにも、エジプト王のアマシスは甘死守といったところか。

2.さりげなく戦争を揶揄して、それに関する当然の報いや天罰を明らかにしたり、筆誅を加えたりする

カンビュセスがエジプト遠征に赴くに至った経緯には、ある人物のそそのかしや計略があったらしい。そういった経緯があって、エジプトの地で、エジプト軍とペルシア軍がいざ開戦となる時、このそそのかした人物の息子が、エジプト軍側のギリシア(義理守亜)傭兵団によって両軍の前で喉を切られ、その血が酒に混ぜて飲まれたと書かれている。これは、普通に考えればあり得ない話で、このそそのかした人物はペルシアに住んでいたわけであるから、その息子も恐らくペルシアに居たか、そこに従軍していた可能性が高い。そういった人物を特定して、エジプトの地で、しかもエジプト軍側の主導によって、処刑することができるだろうか?甚だ怪しげな話である。だがしかし、他の部分では、「この話は普通に考えればあり得ないのだが」とか「信じられない話ではあるのだが」と前置きを置くことの多いヘロドトスも、この話の前にはこの枕詞を使っていない。その理由は一つしかない。戦争の原因とその原因が受けるべき当然の報いを明らかにするためであるのだ。

3.上の項目にも関連して因果の法則を重視している、しかし、事実を重要視している

普通の人ならば、何の関連性もないと判断するようなことも、因果の法則を根拠とすることで、関連付けるときがある。これは、読んでいて、当たり前のように書かれているし、昔は当たり前だったのかもしれないことである。要は罰が当たるというような感覚のことが書かれているのだ。ただし、事実に基付いていることも良く分かる。

ここで、一気に論点を翻して、荀子と歴史との比較の話をしたいと思う。上述のことも重要であるのだけど、私が最も特筆すべきと思ったのは、この荀子儒学)と、歴史との比較のことであるのだ。

つまり、この二書を読んでいると、歴史の方を「なんて物騒な書物なんだろう」と感じてくるのである。

儒学の理想と言うのは、戦争をしないことである。つまり、荀子の王道とは、「戦わずして服す」ことであり、少なくとも儒学では、戦わないことが理想なのである。これに対して、歴史に出てくる登場人物は、「戦って服すこと」しか考えていない。そもそも、「戦わずして服す」「力以外のものによって君臨する」という概念自体が、ヘロドトスを含めた当時の西洋に無かったように思われる。こういった西洋の「力信仰」は、暗黒の奴隷の歴史によっても証明できる、と言っても過言ではないように思われる。