59.荀子 現代語訳 儒効第八 九章

九章

 客にこのようなことを言う者があった。周公は徳の盛んな人であった、身は天子となり貴位を極めたのにいよいよ恭しくなり、家は天下を保有して至富を極めたのにいよいよ倹約をして、全ての敵に勝ち勝利を極めたのに警戒心を解くことはなかった。孔子はそのように言ったと。

 これに答えて曰く。この話は怪しくて、周公の行いではないであろうし、孔子がこんなことを言うはずがない。(●孔子は「周公は其れ盛んなるかな、身は貴くして愈愈恭しく、家は富みて愈愈倹に、敵に勝ちて愈愈戒しむ」と曰えりと。これに応じて曰く、是れ殆ど周公の行いに非ず、孔子の言に非ざるなり)

 武王が亡くなって成王が幼かった時、周公は成王を退けて武王の後を継いで天子となり、玉座に座って諸侯を堂の下で走り回らせた。このときの様子を誰が恭しいなどと思っただろうか。

 天下を全て兼ね治め、七十一の国を建てたのだが、周の子孫に当たる姫性の王は五十三人も居て、周王朝の血縁者の中でただ狂ってさえいなければ王となることができたのだ。誰が周公を倹約家と言うことができるだろうか。

 武王が紂王を誅殺するとき、兵を起こした日は大凶の日であり、また兵を向ける方角も星占いで大凶であり、氾の地に来ると川の水が氾濫し、懐の地に来ると道が崩れ落ち、井頭の地に来ると山崩れがあった。弟の霍叔が心配になって、「出発してから三日のうちに五つの災いが起きた。こんな不吉なことはないからやめたほうがいいのではないか」と言ったのに対して、周公は、「紂王は、比干の胸を生きたままで割いてその心臓を見るというようなことをしたり、自分に忠言する叔父の箕子を牢獄に収監したりした。そして、飛廉、悪来のような悪人が政治を司っている。これほど不吉なことが起きているのに、どうしてやめた方がよいのか」と答えた。

 そして、結局は、馬の隊列を整えて軍を進め、朝には戚の地で食事をして、暮れには百泉の地で宿営をして、牧野の地で紂王の軍を圧迫し、開戦の太鼓を鳴らしたら、紂王の兵隊は背中を周の軍隊に向けて紂王を攻撃し、こうして殷の人の勢いに乗って紂王を誅殺したのである。つまり、紂王を殺したのは周の人の力によるのでなく、殷の人の力によるのである。こういったことであるから、殷の要人で生け捕りになった者はなかったし、武功による賞もなかったのである。

 こうして、鎧・兜・盾の三種の革具をやめて、刀・剣・槍・戟・矢の五種の兵隊をやめて、天下を合して声楽を立てた。このときに、武象の音楽ができて、殷の韶護の音楽は廃止されることとなった。四海の内は心を変じて考え方を変えて、周に帰順しないということは無かった。だから、外門を固く閉ざすことはなかったし、天下を行き来すること何の障壁もなかった。この時の様子からして明らかに周公は警戒心を解いている、そうであるのに、誰が周公のことを警戒心を解かなかったと言えるのか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885

解説及び感想

■ここの部分は、荀子らしいと思う。周公へのこの言い回しは、前にあった部分とは反対のことを言っているとさえ思える部分がある。この部分を読んで、荀子にがっかりされる方もいるかもしれないけど、それは浅慮というものである。同じことを反対の方向から考えることで明と察が生まれ、同じ言葉を別の部分にあてはめることによってこそ弁と別の理が正されるのである。▼詳しくは指摘できなけど、周公は、身は天子となったのに、諸候に頭を下げることを忘れず恭しかったし、国費を少なくして贅沢を省くこと倹約であったし、信頼できる人物を要所に置くこと警戒心を解かなかった。▼この、どちらからの意見も理屈に適っているということは韓非子にも書かれている。難一第三十六〜難四第三十八にそれが顕著に示されている。荀況と韓非の師弟愛が伝わってきて趣深い。

■比干は、王子比干と表記されていた記憶なので、紂王の実子か兄弟ということになる。比干は、紂王を諌めた時に、紂王の怒りを買って「言い伝えによると、聖人には心臓に北斗七星の形の聖痕があるというではないか。してみるに、私にこのような立派ことを言った比干には、この聖痕があるに違いない。胸を割いてみてみよう」と言って事実それを行ったらしい。箕子は、論語易経の地火明イの卦にもその名が見える。暗君の下の賢臣としての代名詞的な存在である。