専心について

今日は、ウポーサタなので、夕飯を抜いている。

それと関係しているのかどうかは、分からないのだけど、専心ということについて、気が付くことがあった。

風呂を出て、頭を乾かしている時に、ふと、「風呂に入っている間、自分は何を考えていたのだろう」と思ったのである。風呂に入っていた時間は、一時間ほどだった。

この風呂に入っている間の一時間、もちろん手足は動かしていたわけだけど、もちろん心も動かしていたわけである。

そこで、手足をどのように動かたか、ということは、習慣もあるから大体思い出せるのだけど、心をどのように動かしていたか、ということが全くと言っていいほど思い出せない。

きっと、体を動かすこと以外の事も考えていたに違いないのだが、何を考えていたのか、どのように心を動かしていたのか、ほとんど思い出せない。

これが、専心ができているか、いないのか、の違いなのだろうと思う。

言志四録で、佐藤一斎は、呼吸も死生だから気を抜いてはならないと言っていたが、このことなんだろうと思う。もしも、心を完全に制御して、常にどんなときも、心を何かに専心させることができるなら、少しの期間でも莫大な修行量と勉強量になるのだと思う。そして、一時的に心を専心させることが、瞑想とかそういった類のものであると思う。

心というものが如何に制御の外で動くものか、ということである。

また、この専心というものが、八正道のうちの正定のことかもしれないとも思う。