15.荀子 現代語訳 修身第二 十二〜十四章

十二章

 老人を老人として敬えば壮年の人もなついて集まり、困窮している人を困窮している人として無理させないならば困窮していない人もここに寄り集まり、地道で目立たない行いで報われないものやことに施すなら賢者も愚者も一つここに集まる。(ここは二重の意味があると思う。自身が善行を施し続けること、またそういった地道に頑張る人に報いを施すこと)

 人にこの三つの行いがあるのなら、大きな過ちがあったとしても、天はその人の望みをかなえるであろう。(●人に此の三行あれば、大過ありと雖も天は其れ遂げしめざらんや)

十三章

 君子は、利を求めることにおいては機敏に動かず粗略な対応をすることもある。しかし、その害から遠ざかることは早い。辱めを受けるときこれを何が何でも避けようとはしない。しかし、道理を行うときは敢然と勇力をもってこれを行う。(●君子の利を求めるは略なるも、其の害に遠ざかるは早し。其の辱を避くるは憚るるも、其の道理を行うは勇なり)

十四章

 君子は逆境に居ても心がゆったりとしていて、富貴の身になってもそのたたずまいは恭しく、くつろいでいる時さえ何ごとかに気を配っており、疲れ果てている時でも干からびたような様ではなく、怒ることはあっても怒り散らすということはなく、喜んでも大はしゃぎすることはない。(●君子は貧窮なりとも志広く、富貴なりとも体恭しく、安燕するとも血気は惰らず、労ケンするとも容貌は枯ならず、怒るとも過奪せず、喜ぶとも過予せざるなり)

 逆境の中でも心がゆったりとしているのは仁を尊ぶからである。富貴の身であってもそのたたずまいが恭しいのは調子に乗らないからである。くつろいでいても何かに気を配っているのは理を選び守っているからである。疲れ果てている時でも干からびたような様でないのは文(かざり)を好むからである。怒っても怒り散らさず喜んでも大はしゃぎしないのは、法則に従うことの強さが自分の感情の起こる強さに勝っているからである。(是れ法とるところの私(情)に勝てばなり)

 書経・洪範篇に「自分の好きだを思うことなく、王の道に従って、自分の嫌いを思うことなく、王の路に従う」とは、この君子が人類一般の義(公義)によって私欲に勝つことができることを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■十一章からでは修身で為すべきこと、それと同時に修身の極致を述べている。為すべきことと極致が同じであるのは、程度の差があるからである。