14.荀子 現代語訳 修身第二 九〜十一章

九章

 法則を好んで行うならば士である。志を厚くして法則を身につけるなら君子である。法則が常に等しく明らかにして無尽であるなら聖人である。(●方を好んで行うは士なり。志を篤くして体するは君子なり。斉明にして尽きざるは聖人なり)

 人に法則がないのなら、ふわふわよたよたと漂っているようなものだ。法則があってもその意味を理解していなくて完全に身についていないなら、無駄に間延びしてせせこましくなる。法則に寄り添い、さらにそれを深く熟知して応用できるようになれば、やっと広々とした穏やかさが生まれる。

十章

 礼とは身を正すためのものである。師とは礼を正すためのものである。礼がなかったら一体どうやって身を正すのか。師がなかったらどうして自分の礼が正しいということがわかるだろうか。(●礼とは身を正す所以なり。礼なければ何を以て身を正さん。師なければ吾れ安んぞ礼の是たることを知らん)

 礼がこうであって自分もそのようにするならば、自分の心(情)が礼に安んじているということである。師がこうだと言って、自分でもそうだというならば、自分の知が師と同じになったということである。心が礼に安んじて知が師と同じであるならば、これは聖人である。

 だから礼を非とすることは法則を無にするということであり、師を非とすることは師を無にするということである。師の言う法則を正しくないとして自分の意見を重用することを好むならば、これは例えば、目が見えないのに色を見分けて耳が聞こえないのに声を聞き分けるようなもので、まるででたらめになってしまう。

 師とは、自らの身を正しい模範としてそのことに安んじることを貴ぶ者のことである。詩経 大雅・皇矣篇に「気が付かないで、知らないで、みかどのきまりに従っている」とあるのはこのことを言っている。

十一章

 正直で従順であるならば、これは善が少ない者と言えるだろう。これに加えて学ぶことを好みへりくだって勉強するならば、これと対等の者はいても上の者は無く、君子の人とすることができる。(●端愨順弟なるは則ち善の少なき者と謂うべし。加うるに学を好みて遜り敏むるならば、則ち鈞しきもの有らんも上のもの無く、以て君子の者と為すべし)

 怠け者で仕事は嫌がり羞恥心すらなくて飲み食いを好むのならば、これは悪の少ない者と言えるだろう。これに加えて放蕩強暴で従順さがなく、陰険で良いものを傷つけることを好み、人の下にいることを嫌うならば、これは不祥の者(不吉極まりない人物)と言うことができる。処刑死罪となって何の差支えもない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■修身を間断なく行うべきこと、またこの道が遠いことを述べたので、九章でその道のりの段階を示している。そして、次に十章でこの修身ですべきこと(礼に則り師を尊ぶこと)を明らかにし、礼と師の定義及びそれらの関係を明らかにする。十一章では、修身で行うべき具体的項目を、逆の場合と対比して述べている。

荀子は、厳しいところがある。師を無にする、ということころには、師は師でも間違った師ならないがしろにすればいいという気持ちが感じられる。また、荀子の言う師は、人間に限らない部分もあるように思われる。つまり、経典を師とするということだ。だが、この半面で、礼は時代によって変わるから生きた師に就かなければならないと述べる部分もある。後でも出てくるけど、荀子は死刑肯定論者であった。これも、宗教や他の教えと、儒教の違いかもしれない。