13.荀子 現代語訳 修身第二 八章

八章

 彼の駿馬は一日で千里の道を行くことができるのだけど、駄馬でも十駕すればこれに及ぶことができる。

 それとも、窮まるところの無いその先を窮め、極まることの無いその先を追ってでもいるのか。

 もしそうならば、骨が折れて筋が絶たれたとしても死ぬまでそこに及ぶことはできないだろう。しかし、止まるところがあるならば、千里がいかに遠い所であっても、遅いのか速いのか先んじるのか後れるのかの違いがあるだけで、どうして及ばないということがあるだろうか。

 それでも、道を歩む者は窮まるところの無いその先を窮め、極まることの無いその先を追ってでもいるのか。それとも止まるところがあるのか。(●将に無窮を極め無極を遂わんとするか。意いは亦た止まる所有らんか)

 堅白・同異・有厚無厚といったような考察は、その精密であることにおいて決して劣っているわけではない。しかし、君子がこれについて弁論しないのは止まるところがあるからである。不可思議で怪しいことをすることは確かに難しいことである。しかし、君子がこれをしないのは止まるところがあるからである。

 だから学問は急がずにじっくりと言う。(故に学には遅(待)を曰う)

 それが止まって自分を待ち、自分が行ってそれに着くならば、遅いのか速いのか先んじるのか後れるのかの違いがあっても、どうして同じところに至らないということがあろうか。

 だから、一日半歩のみ進んでいるだけでも、毎日休むことがないならば足の不自由なすっぽんでも千里の道を行くことができ、土を運ぶことをやめないならば高い山もできるのであり、その水源を全てせき止めて別の方向に流すのならば大河でも枯らすことができる。

 一進一退し右へ左へと方向が定まらないのならば、駿馬六頭立ての馬車でも目的地に着くことはできない。人の才能の違いなどというものは、どうして足の不自由なすっぽんと駿馬ほどの違いがあろうか。そうであるのに、足の不自由なすっぽんが致り、駿馬六頭立ての馬車が致らないことには、一つの理由しかない。そうだ。それは、やるか、やらないかだ。

 道は近いからといって行かないのなら至ることはできず、事は小さくてもやらなければ成就することはない。暇な日が多いようでは、人から抜きんでることなど夢のまた夢である。(●道はちかしと雖も行かざれば至らず、事は小なりと雖も為さざればならず。その人となりや暇日多き者は、其の人に出ずることも遠からざるなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■修身で為すべきことを、途中から論理を少しねじって絶妙なかけ論理にして説いている。つまり、修身には、止まるべきことを提示しておいて、逆にその止まるところが遠いところでもあることを説いている。

■「止まるところ」は「目的地」と訳されているけれど、敢えて漠然とした「止まるところ」のままにしておいた。事実、修身や学問においては、その初歩でも止まるべきところが多くあるだろうからである。その止まるべきところとは、脇道のことである。

■ここはほんとに荀子らしいなと思う部分でもある。というのは、「重要なのはやるのかやらないのか」と訴えているからである。王道にしろ、天論にしろ、普通の人なら、「そんなんできるわけないよ、夢物語もいい加減にしてくれ」というものであろうことであるが、荀子は、「やろうとしてやるのか、やりたいとも思わずやらないのか」と問いかけている。

■中庸第十一章より「子曰く、隠れたるを素(もと)め怪しきを行うは、後世述ぶるあらん。吾はこれを為さず。」

論語より「子、怪・力・乱・神を語らず」