ソークラテースの思い出を読んでいて6 説得

(前回の続き)

 ケイゴーサは、自分が知ってると思っていたことを実は知らなかったことに気がついて、とても衝撃を受け、しばらくふさぎ込んでいた。しかし、自分が知識と知恵の違いの分からないことを認めて、今度はソクラテスのところへ行くことにした。

ソクラテス」ケイゴーサは言った。「私は、あなたのおかげで、自分の知っていると思っていたことが、実は知らないことだということに気がつくことができました。そのことについて、お礼を言わなければなりません。ありがとうございます。しかし、私は、それを知らなかったと知ったのなら、今度はそのことについてしっかりと教えていただきたいのです。今度は私が質問しても良いでしょうか。」

「ケイゴーサ」ソクラテスは言った。「来てくれたのかい。もちろん、君の質問には答えるつもりだ。さあ、なんなりと質問してくれたまえ。」

「あなたは、そもそも私のところに来た時、知識と知恵の違いについて知っていて、私の間違いを指摘するために来たのでしょうか。」

「そんなことは断じてない。もしも、そのことを知っていて、君に質問をしたら、ぼくはとんでもない失礼な人間になるわけだ。そして、そんな失礼な人間に君は礼を言い、さらに質問までしに来たことになる。こんなことはあり得るだろうか?」

「確かに、私があなたを失礼なだけの人間として感じていたのなら、ここに来ることはなかったでしょう。では、どういう気持ちで私のところへ来たのですか?」

「ぼくは、君を言い負かしたわけだし、君よりそのことについて知っていたのかもしれない。だけど、ぼくはこうゆう気持ちで君のところへ行ったんだ。」

「どうゆう気持ちですか。」

「ぼくの知っている知識と知恵の違いは間違っているかもしれない。という気持ちだ。」

「よく意味がわかりません。もう少し詳しく教えてもらえませんか。」

「確かに、ぼくは、知識と知恵の違いについて知っていた。ただし、知らないかも知れないと思っていたわけだ。そう、ちょうど今、君が知識と知恵の違いについて抱いているような感覚だ。」

「なるほど、それならば意味がわかります。あなたは、知識や知恵についてある程度は知っていた。だけど、まだ知らないことがあるかもしれないと思って、私に質問をしたんですね。そして、知識と知恵の違いという問題が難しい問題だということについてはよく知っていた。」

「そうだ。」

「では、あなたの知っている範囲で良いので、知識と知恵について教えていただけないでしょうか。」

「もちろんいいとも、でも、その前に、“君の生きているところ”と“ぼくの生きているところ”の言葉の違いについて考えないとならないのではないだろうか。」

「それはどういった意味でしょう。」

「つまり、君は西暦2000年の日本に生きているし、ぼくは紀元前のギリシアに生きている。言葉が違うのは当然だよね。」

「当然です。」

「ぼくの生きている時代、知識と知恵という言葉はなかった。ただ、美にして善に進むもは全て智と呼ばれていた。正確には、ぼくだけがそれを智と言っていたのかもしれないのだが。」

「おかしなことを言われますね。ご自分のことなのに、どうして“かもしれない”などと言われるのですか。」

「君はぼくの考えていることがわかるかい?」

「いや、わかりません。だからこそ、このように話をしに来たのです。」

「それと同じで、ぼくだって、他の人が何を考えているかわからない。だから、ぼくにしか、ぼくの智の意味は分からないと考えられるわけだ。そうすると、当然、かもしれないと言うしかなくなる。」

「確かにそうです。しかし、そうだとしますと、知識と知恵についての問題も人によって違うかもしれないという理論で全てがどうどうめぐりして、結局結論が出ないのではないでしょうか。」

「そういったことになる。」

「ではなぜ、あなたは私のところへ来たのでしょう。少なくとも結論を求めるために私の所に来たわけではなくなります。」

「君は、自分が神になれると思うか?」

「いや、断じてそれはできません。」

「しかし、近付くことはできるのではないか。そして、もし、近付くことができるのにそれをしないならば、それは劣ったことではなかろうか。」

「それをできるのにしないことは劣ったことと言えるでしょう。」

「まさにそういった理由で、君のところへ行った。これが一つ、そして、もうひとつ、美にして善なるものを求めて問答を続けるならば、必ず結論は、美にして善なるものに近付くことができる。これは間違いのないことだ。このことだけは知っていたから、君のところへ行ったのだ。」

「それは、あなたの又弟子にあたるアリストテレスも言っています。彼は弁論術という著書で『弁論とは、基本的に正しいことに向かう説得推論であるべきだ』と書いています。確かに、遠い過去におこったことや、目に見えないこと、知識と知恵についてもそうですが、こういった類のことは、事実を確固として知ることはできないので、推論を積み上げてそれが真実であるかどうか判断するよりしかたありません。そして、なぜそういったことをしないとならないかは、知とは多くの人の間で共有すべきものであるからです。荀子という本の正名編には、『知る所以の人に在るものはこれを知(智)と言い、知りて合うところのあるもこれを知と謂う』ともあります。」

「君の時代には多くのことが明らかになっているんだね。」

「なっていますとも、あなたが今にいらっしゃったら、きっと、喜ばれて多くのことを知ろうとすることと思います。」

「しかし、それはぼくの役目ではないのだ。」

「どういった意味でしょう。」

「今、ぼくは君の前に現れて、自分の役目を十分に果たしたと思っている。君がぼくのことを忘れなければ、いつでもぼくは君のそばにいるだろう。」

 そう言うと、ソクラテスはスッとその姿を消してしまった。


対話編 まとめ