ソークラテースの思い出を読んでいて3 智の泉

今、二回目を半分以上読み終わったのだけど、ソクラテスの賢明さは、智が自分の中から湧いているとしか思えない。

 そこでこのように思った。

「賢者は自ずから知り、智者は習いてこれを知る。愚者は己の知らざることをも知らず。」

 つまり、智恵が、ある一定まで達すると、自ずから知る、ありのままに知る、ということができるようになると思ったのだ。正確には、知識:knowlegeは外から取り入れるものなので、自分の中から湧いてくるということはあり得ないのだけど、ソクラテスのこの賢明さを目の当たりにしていると、自分の中から、知識とは少し違う智というものが湧いてきているとしか思えない。もちろん、原始仏典での釈尊の言葉も、そう感じられる部分もある。だが、この対話法というすごい臨場感のある書きだし方が、この智が湧いてくるような実況をしているように思えてならない。

 その後の項目は、まあ、前からわかっていたことと言えば分っていたことで、最も愚かな人は、自分が知らないことをも知らず、下手をすると、それを知ったつもりになっている。これより優れた人は、自分が知らないことの多い人間であると知り、また、知らないことを知ろうとする。

 あと、ダイエット効果ももたらしている。というのも、食欲の言いなりになっていることの愚かさが、あまりにも鮮明に、そして反論の余地もなく、分かりやすく書かれているからだ。自分が、欲を征服しようとしないことがいかに愚かなことか、認めざるを得ないような状況になっている。

 私は、このソクラテスの理論を使いたいのだけど、使うことができない。何度も同じ理論展開を読んでいるのだけど、私の知恵が足りないばかりに、その理論展開を捉えることができていないのだ。その点、この著作の筆者クセノフォンはすごいと思う。メモとして、その話をどこかに保存していたのか?ことあるごとにソクラテスのことを頻繁に思い出していたのか?それとも、ソクラテスと居た時間がとても長かったのか?というのも、クセノフォンがこの著作を書いたのは、ソクラテスと分かれて、数年放浪軍の将軍を務めた後であるからだ。

 ただ、私としても、「本を持っている」という安心感が、逆にこの本の内容への記憶を妨げていることは間違いないと思っている。本があるといつでも読める。なら、記憶しなくてもいいではないか。という理論だ。これは、本を所持することのデメリットかもしれない。辞書を暗記して1ページずつ食べるという話は聞いたことあるが、あながちでもないなぁと思う。だが、私はこの本を決して手放したくないのだけど。