ソクラテスの思いでを読んでいて1

 今日、詳しくは述べないが、ある事実が発覚して、

「智者の前で嘘をつくことは、太陽に向かって顔を手で隠すことに等しい」

とか考えていた。つまり、このとき、私は智者に対する愚者のことについて考えていたわけだ。愚者がなぜ愚者であるのか、愚者が愚者がたる所以、極言すれば愚者の方をメインに考えていたわけだ。

 そんなことを考えていた矢先、今日から読むことにした、「ソークラテースの思いで」を読んで、自分の愚かさに気がついた。つまり、こう思ったのだ。

「愚者がなぜ愚かであるのか、それを知ることは優れている。だが、賢者がなぜ賢いのか、それを知ることはさらに優れている。」

通常、賢者の言葉というのは、ただ受け入れるだけで、なぜその賢者がそのような賢い言葉を言ったのか、また、賢者がなぜそのようなことを考えたのか、ということを考えない。それもそのはずで、賢者がなぜ賢いのか分かる人は、間違いなく賢者であるはずであるからだ。

 例えばこういうことだ。医者が、CTスキャンを見ながら、多くの患部を持つ人を診断する時のことを想定するとわかる。医者がその患者を見るとき、患部が多いということは、その原因となる手がかりも多いわけで、肝臓に疾患があるなら、酒の飲み過ぎだろうとか、そういったことを想定し易いし、また、その原因に対する対策も立てやすい。しかし、とても健康な人の体を見た場合、医者は、「あなたはとても健康です」と言うことはできても、なぜその人がとても健康なのかということや、なぜその人は健康でいられるのかということは、ほとんど考えないだろうし、もし、考えたとしても、的確にそれを指摘することはできないだろう。さらに、もしも、その医者自体が健康になろうという意欲が少なかったら、余計にそのことは分からないことが容易に想定される。

 逆に言えば、その医者にものすごい健康への意欲があり、健康を継続することを望むならば、その医者はとても健康になれるとも言える。そして、健康とは、手に入れることも簡単ではないが、それを継続することはさらに難しい。そして、上で述べたように、健康でいるための秘訣は、「なぜ健康で居られるか知ること」にかかっているわけである。だから、このように思った。

「徳を得ることは難しいが、徳を持ち続けることはさらに難しい」

 「ソークラテースの思い出」自体と、話はそれているようだけど、その本を元に着想を得ているので、上記の題名にした。この本の内容については、また書いていきたいと思う。この本を購入することができて、本当に良かったと思っている。だが、この本が、岩波文庫で既に絶版となっていることは、あまりにも惜しいことである。