本当にあった怖い話1

あれは、5年前の夏だった…

ぼくは、連日、午後10時ほどまで仕事をしていた。きっと疲れていたんだと思う…。でも、あの体験は疲れとかからくる幻覚や、夢や、とにかくそういった類のものじゃなかったんだ。


ぼくは、仕事から帰ってきて、夜食を食べ、風呂に入った。風呂からあがって、ふとんに入ったのは、たぶん12時ころだったと思う。相変わらずの夏で、寝苦しい暑い夜だった。

そして、いつものように電気を付けたまま、床に直(じか)にひいてあるせんべい布団の上で横になったんだ。電気を付けたままなのは、本を読むためだ。あの時は確か、お気に入りの易経を読んでいたときだったと思う。

易経を読んで、いろいろ考え事をしていると、本と哲学の世界へ入り込んでしまって、自分のことなんて忘れてしまう。

そうして、ぼくは哲学の世界で、その眠れぬ夜の序盤をいつものように過ごしていたんだ。

ガタガタ…

ドタ…

ぼくは腹の辺りに重みを感じて驚いた。いくら目覚めていても、すっかり哲学の世界に浸っているぼくは、外界の感覚に過敏になっていたんだ。カエルの鳴き声しか聞こえていない、いつもの夜の音以外のその音と、腹に感じたその違和感にハッと驚いて、顔だけ起こして、まわりを見渡した。そしたら、黒い影がスーッと寝室の入り口から外に出て行った。

「なんだモワ(猫の名前)か…」

モワは、モワール、真黒な雌猫だった。だったって言うのは、今はもう、うちにいないからで、モワールって言う名前も、フランス語の黒「ノワール」にちなんで付けられた名前だった。モワは頭の良い猫で、自分で網戸や窓を開けて、うちの中に入ってくる。そして、そのお決まりの通用口が、二階にあるぼくの寝室だったということなんだ。

「モワが来たってことは」と思って時計を見てみると、その短針は、2を指していた。

「さあ、寝よう」

ぼくは、電気から垂れ下がって、もうぼろぼろになっているその白いナイロン製のひもを、数回引っ張った。そして、暗くなったその部屋の、そのせんべい布団の上で、いつものように、夏用のうすいかけぶとんをかぶって、次の朝まで寝るはずだった。そう、寝るはずだったんだ。あんなことさえ起こらなければね。

話を進める前に、ぼくは、モワのことについて、もう少し詳しく説明しないといけない。モワが頭の良い猫だったとはさっきも説明したんだけど、他にも性格に特徴があって、とにかく、人懐っこいと言えるような猫じゃなかったんだ。猫らしいって言えば猫らしいんだけど、人にだかれたり、触られたり、そうゆうことをあまり好かない猫だったんだ。だから、機嫌が悪い時に触ろうとすると、すぐに前足で叩かれた。ちょうど、関西芸人が突っ込みをするときのような感じかな。あと、すごいスタイルの良い猫で、人間だったら間違いなく八頭身、体の長さは普通の猫くらいだったんだろうけど、そのスレンダーさから、中猫くらいにしか見えなかった。そして、毛は長くも短くもなかったんだけど、毛並みは良くて色は漆黒。交じりっけのない、黒だった。まあ、モワのことはこれくらいにして、話を進めよう。

ぼくは、その暗い部屋の中で、右を下にして眠りにつこうと横になっていた。その日も、クーラーがないぼくの部屋は相変わらず蒸し暑くて、窓から入ってくる風が、わずかにふとんとぼくの体の間にある熱をたまに流しては、涼しい気持ちにしてくれていた。

ぼくも、ようやくウトウトしてきたときのことだった。ぼくの足元に、何か動物の足くらいの大きさの「モノ」が、夏用のうすい掛け布団越しに、ぼくに重さの感覚を与えてきた。もちろん、眠たいぼくは、そんなことそんなに気にしない。夢うつつで、「またモワがきたんかな」なんて思っていた。そして、その「重さ」は、だんだんと、ゆっくりと、ぼくの腰のあたりまで近付いてきた。「モワにしちゃ珍しいな、今日はぼくの横で丸くなって眠る気だな」と思った。

そして、その「重さ」はそこで足踏みのような動きをし始めた。猫が甘えるとき、ほんのごくまれにだけど、猫は、母親の乳を吸うときのことを思い出して、その前足を足踏みのように動かすことがある。それをモワがやっているんだと思った。

「モワにしちゃ珍しいな、モワでもこんな甘えるときあるんだな」もう、うとうとしているぼくは、目でモワのことを確認しようなんて思っていない。「そこにいるんだろうな」そういう感覚に似た記憶が、ぼくの心を支配していた。

そのとき、風がピッタリやんで、ぼくと布団の間にまた熱がたまり出した。その暑さという不快感は、僕を正気にもどすのに十分だった。

「ここで、足踏みをしているのは、モワだ」

「でも、その足の重さは、はじめから「二つ」しかない」

「今、僕の腰のあたりに居る「モノ」は四足歩行の猫じゃない」

「二足歩行の何かだ!」

ぼくは、怖くなってしまった。ぼくが気付いたそのあとも、その「重さ」は相変わらず、規則正しく、そして、何事も無かったように足踏みを続けている。よくその「重さ」を感じてみると、明らかにモワのそれより軽いものだった。そして、ぼくがモワだと思ったことでも分かるように、その「重さ」は、賢い猫が、抜き足差し足で歩く時のように、ゆっくりと確実に、ぼくの腰の辺りに「重さ」を感じさせていたのだ。

ぼくは、この不可解な感覚を、ただ不気味に思うばかりだった。もちろん、そこに本当に「モワ」がいるのかどうかなんて、直視して確認することはできなかった。

ぼくは、布団とぼくの間にある、その熱を散らすかのように、寝がえりを打った。

その「重さ」の感覚は、無くなった。

「なんだ、やっぱり気のせいか」

ぼくは、もう一度寝ることにした。

だけど、横になってしばらくすると、また、その「重さ」がぼくの足の先辺りに現れた。そして、ぼくの腰のほうに近付いてくる。そしてまた、ピッタリさっきと同じ位置、つまり、ぼくの腰の辺りで足踏みをしている。

「君はいったい何者なんだ」

得も知れない恐怖と、眠れない疲れた夜の中で、そう思いながら、ぼくは心を平静に保とうと、目をつむったまましばらく横になっていた。だけど、ぼくの心は、とても平静になんてならなかった。明日仕事があるのに夜遅くまで起きているという焦りと、蒸し暑さと、その恐怖とがごっちゃになってぼくの心を支配していた。

ぼくは、その複雑な心との決闘にひとつの答えを見出した。

「君は、ぼくに得も知れない恐怖を与えている。だが、ぼくは、君がそこにいると眠れない。ぼくは君の正体を暴かなければならない。」

ぼくは、意を決して、垂れ下がったナイロン紐に、バッと手を伸ばして電気を付け、首をおおきくひねって自室を見渡した。

「やっぱり、何もいないじゃないか…」

「きっと疲れが、そういった幻覚を感じさせていたんだろう。」

ぼくは、自分を半分納得させて、今度は電気をつけたまま寝ることにした。

だけど、「彼」はもう一度、ぼくのところに来た。

そして、今までと同じように、ぼくの足の方から、腰に向かって「歩いて」きた。そしてやっぱりいつもと同じ位置、そう、腰のあたりで足踏みを始めた。

心を決めていたぼくは、スーッと静かに目を開けた。丸型の蛍光灯は、相変わらず無表情に、その白い光でぼくの部屋を照らしていた。そして、ぼくは、「彼」に気付かれないように、そーっと首だけをあげて、重さの感覚がある腰のあたりに目を向けた。

だけど、そこには何もいなかった。

でも、その足踏みの感覚は、ぼくの腰の辺りにあるし、消えることは無い。

「なんなんだ!これは一体なんなんだ」

普段は冷静で、滅多なことに動じないぼくも、もう我慢の限界だった。

ぼくは、すぐに飛び起きて、敷布団をめくりあげた。ぼくの頭は、ほとんど錯乱状態だったけど、「彼」がそこにいるかもしれないと、わずかな理性がぼくにその行動を取らせていたのだ。

でも、やっぱりそこにも何も無かった。

ぼくは、自分の理性では判断できない彼を、理解することはできなかった。そして、ぼくの理性は、もうそれ以上、彼と対話することを許さなかった。すぐにうすい掛け布団だけ手にして、ぼくは、一階の座敷に歩いて行った。

「明日も仕事がある、さあ、彼のいないこの部屋で休養をとろう」

その部屋に、彼が訪れることはなく、ぼくは眠ることができた。けれど、ぼくが座敷に移動したのは、午前3時半だったし、それ以上に、その鮮烈な体験がぼくを必要以上に疲れさせていたから、次の朝日の時、とても休養したという気持ちにはなれなかった。