仁義礼智と国家

 荀子の王道のことについて考えていて、仁義礼智の徳と国家体制を関連付けて考えることを思いついた。

 具体的には、「仁」を体現するのは、主権者である国民、日本だとその象徴である天皇陛下でもあるということになる。

 「義」を体現するのは、司法である。義とは事の宜しき、名目的に道理的に正しいかどうかを論理的に判断することである。よって、義を体現しそれを司るべきは、法であり、司法がこれに当たることになる。

 「礼」を体現するのは、国会である。礼とは、その時代と、その場合に応じて、最も適切な対応をすることである。国会で、法律や予算が、各利害団体の代表を通じて、それが決められるということは、礼を体現するべきは、国会であるということになる。

 「智」を体現するのは、内閣及び行政機関である。智とは、遠く未来のことを予測し、またその予測やまた実質的な調査に基づいた根拠を手掛かりに、未来の安心を広げることである。すると、予算の原案や、法律立案をする行政は、智を体現すべきなのである。

 このように、仁を真ん中において、義礼智の三つの徳が並び立った制度、つまり、現在の三権分立とは、儒学的に考えても非常に理にかなったものであったのである。制度と徳が、名文的にも、実質的にも、同じような形態をとるとき、その既に存在している徳というものは実行されやすくなる。(徳は既に存在し、そこに最初から確固たるものとしてあると考えられる、よって、この既にあるものに合わせて制度や体制というものが作られるべきだという考え方に基づく)よって、現在の三権分立制度とは、王道を体現し易い制度であると考えられる。ちなみに、中国の制度は、残念ながら、危道である。覇道にも及んでいない。少し前までのアメリカが覇道を体現していたと言うとわかりやすいかもしれない。