今を精いっぱい生きる

 今を精いっぱい生きるとはどうゆうことなのだろう。

 私の場合だと、今は、未来のためにある。と思っている。だが、もし、自分が一ヶ月後にでも死んでしまうとなった時、一体自分は何をするのだろうと思い始めた。仕事は辞めるだろう。そうして、何をするのか?

 私の勉強や学問は、一か月やそこらで成就するのもではない。最低でも数十年、というか運よく長生きすることができて、たとえ百歳まで生きれたとしても、成就しているかどうかは怪しい。

 一か月だけでも、焼け石に水でも、勉強をするだろうか?きっとしないと思う。未だ納得のいく領域には達していないけど、今までの研究成果をなんとかまとめようとするだろう。

 では、明日死ぬとなったらどうであろう。そうしたら、もう何もしないだろう。ただただ、自分の人生を振り返ってみたり、絶望に暮れてみたり、あるいは、死の恐怖を克服せんと思索にふけってみたり、そんなことをするような気がする。

 このように、物事には適切な期間というものがあって、期間如何で、やるべきこともやりたいことも変わってくる。

 だが、しかし、現実として、私はいつ死ぬか分からない。あさって死んでいるかもしれないし、一年後に死んでいるかもしれない。それは分からない。それなのに、数十年の計画を立てるのは、いささかばかげているような気もする。だが、逆に、そうだからと言って、明日のことと今のこと、期間的にとても短いことや、目先のことだけしか考えないというのもばかげているような気がする。


言志晩録 175より

心は現在なるを要す。事未だ来たらざるに、邀(むか)うべからず。事已(すで)に往けるに、追うべからず。わずかに追い、わずかに邀うとも、便ち是れ放心なり。

現代語訳

心というものは、今ここにあることが、要(かなめ)である。何かまだ来ていないその未来のところに心を置いてはならない。過ぎ去ってしまったその過去のことに心を捉われてそれに向かわせてはならない。ほんの少しだけ心を前に置いても、ほんの少しだけ心が後ろに引っ張られても、それは放心(心を放って本心のない状態)である。


菜根譚 前集 80より

未だ就らざるの功を図るは、已に成るの業を保つに如かず。既往の失を悔ゆるは、将来の非を防ぐに如かず。

現代語訳

まだ為し終えていないことに心を巡らすことは、もう為し終えたことを保とうと思うことには及ばない。終わってしまった失敗を悔いているよりは、将来の失敗を防ぐことを考えた方が良い。


今を精いっぱい生きることの具体的なことは、人それぞれで、違うだろうが、ある程度の目安や、共通的なことというものはあるように思う。この二つの格言からすれば、過去への対処は分かりやすい。だが、未来と適切に付き合うこととは一体どいうことなのか。難しいことであると思う。