結果に内容が伴っているとは限らない

 華々しい結果は、決して内容が伴っているとは限らない。偶然、そのような結果に至ることがある。

 ただ、この「偶然」という言葉もかなり厄介なもので、それは因果の法則に照らし合わせてみると、「必然」であったりする。確か聖書だったと思うが、「悪への報いは、それが大きくなるように、その報いが訪れる前に、必ず見せかけの成功や幸福が訪れる」とあったと思う。

 どういうことかというと、故意に人をだましたり傷つけたりして、そのことによって良い思いばかりしているAさんという人がいたとする。このAさんは、当然だけど、その悪に対する報いを受けなければならない。だが、このAさんへの報いは、単なる「不幸」や単なる「死」であってはならない。Aさんは、少なくとも一人以上の人の人生を台無しにしているのだから、一人の人生で二人あるいはそれ以上の分の苦しみを受けなければならないからだ。だから、生活の苦しみも少なくとも2倍以上、死の苦しみも少なくとも2倍以上でなくてはならない。

 このような苦しみが加えられるためには、Aさんは一時成功しなくてはならない。なぜなら、王が庶民になったときの方が、庶民が貧乏になったときよりもはるかに受け得る苦しみが大きいからだ。失うものが大きいほど、その苦しみは大きい。

 しかも、さらに言うと、悪人の偶然の成功は、必ず破滅を以て終わる。なぜなら、悪人と言うのは、極論すれば不信が招く不幸を読めない「先を読めない人」であり、目先の快楽に捉われて真の幸福を逃す「我慢できない人」であり、すべてをむさぼりつくす「貪欲な人」であるからだ。偶然の成功を得た悪人は、まず最初に必ず慢心する。そして次にさらなる快楽を求めてさらに罪を重ねる。そこには勢いがあるから成功する。これが慢心を助長し、さらなる妄挙を繰り返すこととなる。そして、妄挙を繰り返せば、そこには必ず破滅が訪れる。見せかけだけ立派な張りぼての城が、突風で跡形もなく無くなるようなものだ。そして、その所有している時の破滅は、無かった時の破滅よりさらにむごいものとなる。

 そう考えると、本当の力を伴っていない偶然の成功は不幸でしかない。