初めて雹を見た(陰陽的に考えてみた)

 今日の3時ころ、すごい土砂降りになって、「すごい夕立だな」と思っていたら、その雨の音が急に「堅く」成り出したので、外をちらっと見てみたら、雹が降っていた。

 しかも、大きさと量が半端でなかった。量の方は具体的に表現できないけど、大きさは、本当に大げさでなくて直径1.5cm〜2cmほどの大きさだった。その大きさの雹の破壊力と、雹が降っている光景の壮観さを想像していただきたい。こう表現すると想像していただけると思う。つまり、雹が水田に落ちるたびに、20cm〜30cmの水柱が立っていたのだ。水田の至る所で、代わる代わる絶えることなく、そこそこ大きなつららのようなものが、すごい速さで、生えては引っ込み、生えては引っ込みしていたのだ。あまりの異常さについつい興奮してしまった。そして、これを見た昔の人々が、「どれだけ天を畏れたのか」ということも容易に想像できた。

 荀子の天論によると、人が畏れるべきものは、天の為す妖でなくて、人の為す人妖である。雹が降るのは、自然現象に過ぎないから、それがあったからとて、畏れることは無いというのである。(詳しくは、今後翻訳される天論の続きで)

 易をかじった者としては、この自然現象を、当然、陰陽的に理解しようとするわけで、この状況は「天水訟」の上九に間違いないと思った。訟は、上下の争いごとのことであり、争いごと全般を指す。そして、その上九の辞は、「争いに勝ち続け、立派な褒美をもらうが、朝廷の会期の終わるころにはそれを取られてしまって、もう返してもらえることは二度とない。いいところは全くない。」である。水がすごい速さで一気に落ち、すべてを破壊し尽くすその状況にまさに一致するように思う。

 だが、訟の九五は、「訴え、元吉なり」(このような人に争いごとを解決してもらうと、すべてがうまく終わって、大きく得る所がある。)となっている。では、これに当たる自然現象は何かと考えてみて、これは「適度な豪雨のことだ」と思った。つまり、「雨降って地固まる」とか「すべてを水に流す」ということである。豪雨が土砂崩れなどのある程度の破壊を伴い、塵やカスをすべて洗い流すように、争いごとの解決には、ある程度の破壊や強力な浄化というものが必要なのだと思った。