最近の日記

 最近、たまたま友人からいろいろ誘われたことや、おとといの友人の結婚式で余興をやるということもあって、その練習の集まりなどで社交的な生活をしていた。そのこともあって、「道徳感情論」の読解は、本を少し開けてみただけでも閉じてしまいたくなるようになってしまった。

 それで、その社交的な生活の中で、今までは(わかってもらえないので)ほとんどしなかったけど、私の研究について語ってみた。そしたらけっこう分かってもらえた。

 今までわかってもらえなかったのは、私自身にしゃべる気が無かったことがけっこう大きな理由だったなと思った。これをしゃべりたくなった心境の変化は分かる。今までは、その問題を何か、人から離したレベルでだけ考えていたのだ。社会や経済、政治は、人間、それは私を含めた身近な人すべての切実な問題であるのに、その問題を恐らく、私自身のキャパシティとして正面から受け入れることができず、どこか離れたところでだけ考えていたと言うことだと思う。それが、最近やっとそれを受け入れるだけの力がついて、その離れたところでの想像と、現実を連結できたということだと思う。人間を切実に解析している道徳感情論を読んだ影響かもしれない。

 あと、皆、将来に漠然とした不安を抱えていることも分かった。自分を高めるわけではないけど、皆は、その原因を探求して、そのレベル(社会のシステムや政治・経済の仕組み)でものごとを考えることができず、ただ、漠然と「どうなるんだろう」「何とかなるだろう」といったところで思考がストップしてしまっているということも分かった。

 私は何故か、それだけのことを自分の頭の中で整理して、想像し、その仕組みについて考えてしまえる能力が、何故か、備わってしまっていることによって、その偉大なる問題を自分の問題として抱えているわけだ。

 どの道、道徳感情論は全部読んだ方が研究が前に進みそうなので、結婚式が終わったので、また心を入れ直して読解を進めようと思う。

 とりあえずの課題は、人間に内在する欲求を、mateliarize(唯物論化)することか。少し見当はついていて、労働とは何かで示した「生存欲求」「労働付加価値」に加えて、「利便性追求欲求」「交流欲求」「知的欲求」などを追加し、検討しなければならないということだ。そして、それを歴史的に考察することで、新たな神の見えざる手が見えてくるように思う。