礼とは何か 易経とか荀子とか

 礼とは何なのだろうか。

 インターネットで検索したけど、浅薄なものしかない。

 私が儒学を、所詮は独学でだけど勉強した限り、それはまず単なる作法のことではない。もっと重要なものであるのである。中庸にとどまるところが礼である。とあるが、それだけでも足らない気がする。

 易経で言うと、天沢履が礼ということになる。

「虎の尾を履むも人を喰らわず。亨る。」

 確かに礼とはそういったものだ。だが、これは礼の効用を説明してるだけであって、礼が何であるのかを説明していない。

 そして、礼の極地は、その上六の爻辞である。
「履むを視て祥を考う。それ旋るときは元吉なり。」

 まずひとつめ、今読書メモを残しながら要約している道徳感情論において、「適宜性-プロプアテイ」と言われるものが、礼に近い気がする。だが、それだけでは足らない。

 なぜなら礼とは、質と文(きじとかざり)がうまく交わったところであると同時に、その素地(敬)が最も大事なものであるからである。

 荀子によると、礼とは止まるところとある。そして、それは時代によって変化するともあるし、師につくことでいち早く得ることができるものであるともある。

 論語には「己に克ちて礼に復るを仁と為す」ともある。だから、礼は学ぶことであると同時に復るところでもあるわけである。

 考えがまとまらない。というか問題が難しすぎる。ただ言えそうなことは、礼とは人間社会において存在するもので、それは年功序列のような秩序と関係が深いであろうこと、また、人が有する感情や自律心に関係が深いものであること、また、中庸と関係が深いであろうこと、学ぶことによって得ることができるものだが、そうだからと言って学ぶだけでは得ることができないものと言ったところか。

 しばらく、自分にはこの四徳が足らないと思い、「敬謙礼節」という言葉を普段から忘れないようにしていた。だが、礼以外の徳は陰徳であって、履の剛健を喜ぶという卦象には完全に近付けない気がする。そう思うに、むしろ、今自分は、陽徳を大事にしていないということかもしれない。陰陽は分かち得ないものであるし、バランスが大事である。陰徳とは地道に積み上げる徳であり、陽徳とは発せられる(もともと内蔵している)徳である。かと言って、陰と陽は常に表裏一体であるから、同一の徳自体にも陰の部分と陽の部分があるとも言える。そして陰陽を整えるのは学である。まあ、学ぶしかないか。