個人的な習慣と「すがる」という気持ち
最近、一年ほどやっていなかった阿弥陀経の読経を再開した。
うちは、浄土真宗の檀家ではあるが、今は亡き祖父の影響で、天台宗浄土派のものと思われる「勤行集」というお経を仏壇の前で唱えている。子供のころから、祖父や祖母の横でよく聞いていたものだ。
慣れているが故のひいき目線もあろうが、この「勤行集」の編集が、なかなか良い。
ほとんど書き下しだけど和訳もつけてみる
「焼香偈」
願我身浄如香炉
願我心如智慧火
念念梵焼戒定香
供養十方三世仏
「願わくばわが身を香炉のごとく清め
願わくばわが心を智慧の火にし
戒めで定めた香を焼き焚てることを念じ念じて
十方三世(あらゆる方位・全ての時間)の仏を供養せん」
「三宝礼」
一心敬礼十方法界常住仏
一心敬礼十方法界常住法
一心敬礼十方法界常住僧
「開経偈」
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義
無上にして甚だ深しは微妙の法
百千万劫の時を待てども遭い難く
我今見て聞き受持するを得る
願わくば如来真実の義、解かんことを
このあとに、「三誓偈」「仏説阿弥陀経」「空也聖人御和讃」「御歌五首」「歓喜踊躍和讃」「回向文」となっている。
こうして意味を再確認して見ると、私が真実とか義とか、智慧とかにこだわるのは、この最初の三つの偈の影響かもしれないなと思った。特に真実へのこだわりは、なんか尋常ではないものを我ながら感じる。
お経を始める最初には、数回念仏「南無阿弥陀仏」を唱え、慈悲の経
「生きとし生けるもの全てが幸せでありますように
生きとし生けるもの全ての願いが達せられますように
生きとし生けるもの全ての悩み苦しみが無くなりますように
生きとし生けるもの全てに智慧の光が訪れますように
生きとし生けるもの全てが幸せでありますように」
となるべく生きているものをイメージしながら唱える。
そして先に挙げた勤行集を一通り読み、また最後に念仏を300回くらいしてから、また、慈悲の経を唱えることにしている。
それでもなかなか慈悲は自分に身に着かない。そんなことを思いながら念仏をしていると、ほんとに阿弥陀仏にすがるしかないという気持ちになってくる。
どこで見たか聞いたかすっかり忘れてしまった「人はなんでも自分の力でしたように錯覚するものだ。けれど本当はそうではない。」と言った主旨の言葉が、なんとなく思い出されてならない。