人生は意外と長い

 ロシア史についての本を読んでいてそう思った。

 特にロシアのように、支配者や社会体制がめまぐるしく変わるような歴史を読むとそう思う。自分の生きているうちに、土地は変わらないのに、支配者や社会体制が二度も変わったとすると、それは結構長い時間を生きたというような感覚があると思う。

 100年生きたとすると、一世紀生きたことになる。そして、一世紀とは西暦2000年のうちの1/20なのだ。1/20とは、例えば、一日のうちの一時間くらいのことになる。起きて活動している時間だけを一日としても、40分くらい。これが一日のうちで占める割合は結構大きい。一年で言うと約半月、割合からいけば結構長い。人間が電気(それはつまり今の工業のこと)を手にしてからだと、1/3と、限りなく大きな割合だ。「長大な歴史を見ると、自分が如何にちっぽけかと思う」と、自分を謙遜化する考え方は多いけど、「長大な歴史のうちでも、自分が共有している時間の長さを自覚して、その責任を感じなければならない」という意見はあまり聞かない。だが、どちらの感覚も悪くはないだろう。

織田信長桶狭間の戦いの前にやったとされる「敦盛」

人間(齢)50年、化天(下天)のうちをくらぶれば、夢幻のごときなり の節は有名だ。

 今は「人の寿命は50年しかないのだ、天の下に生まれたことを考えてみると、そんなのは夢幻のようなものだ」と、織田信長象や戦国時代の時代性と相まって解釈されがちだ。私もそのように解釈していた。

 しかしながらこれをwikiで調べてみたら、「人の世の50年は、化天という天界の一日に過ぎない。そうして考えてみると、夢や幻のようなものだ」という意味とのこと、まあ、かけ言葉的なものかもしれないけど。

 極端な例を示したけど、重要なことは自分が生きて共有している時間を正しく認識することだろう。「自分の生きている時間なんてちょっとした大したことないもんだ」と相対的に刹那に捉えるのはいささかなげうち過ぎで、無責任のような気がする。確かに、地球が64億年(だったかな?)存続していることを思えば、人生は刹那である。しかし、人類が文明や文化を手にしてからと考えると、ひと一人の人生とは結構長い時間で、それに応じるだけの結構重い責任が荷せられているように思う。そうやって考えて、この一瞬、この今を後悔のないように生きることは重要なことだろう。