哲学の貧困

 昨日、ふと思ったのだけど、近代ヨーロッパあたりの啓蒙書などは、内容がすばらしいことは言うまでもないが、それ以上に長編が多いと言えると思う。

 文庫本のあの字の細かさであの厚さになったり、数巻にも及んだりと、字の量が半端でない。昔の出版形態がどのようなものであったかはわからないけれど、活字印刷技術から察するに、紙量としても相当なものであったと思う。なのに、あの量である。

 内容の一貫性もすごい。私が初めて読んだのは、ジョンロックの市民政府論であったのだけど、その理論構築力に大変驚いたことを今でも覚えている。前のどの一編、どの一節も後の結論を証明するために欠かせないのであって、逆に言うと、前の部分を理解していないと後に書かれていることの意味がわからない。

 マルクスの書物についてもそうだ。結論を導くまでの過程が理路整然と書かれている。そして、全てが結論のために欠かせない。なのにあの量である。

 それに比すると、現在は哲学、引いては学問全ての貧困としか思えないような状況になっているのではないか。文庫本にして、2分冊に及ぶような学術書の長編が最近出版されただろうか。そのような書物を書ける、または書いている人が現在この世に存在するだろうか。私が知らないだけで、そのような名著は多く出版されているのだろうか。少なくとも書店や図書館を見渡す限り、それは否定される事実であるように思う。

 それは何故か。ひとつは、哲学が必要とされていない、否、哲学は必要であるから、望まれていないということが大きいだろう。そして、そのような人類のための真の学問をするはずの優秀な人が、他の物質的学問(科学的なこと)や空虚的学問(経済学のこと)に取られたり、流れたりして、人材が希薄となっていることが理由としてあると思う。そのような優秀な人すら惑わしてしまうだけの幻惑の魅力が、経済や物的富にはあるのだから。私は、さほど優秀ではないけれど、幸いにしてそのような物的経済的富に価値を見いだすことなく、真の学問の方を研究(所詮趣味の範囲だが)している。星の数ほどもいる私より優秀な頭の切れる人が、私と同じだけの精神性を持てば、哲学の再興もあるかもしれないのに、そして人類や全ての生きるものが幸せに近づくのに、と思う。