中津川市 市長リコール

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011092690002310.html

 私がこのニュースに関心を寄せたのは、他でもない、我が岐阜県関市でも同じようなことが起こったからだ。違うのは、2期か3期の前市長が任期満了で市長選を迎え、そして新人の前市議会議員敗れたというところだ。リコールほどの話題性はないが、敗因が一緒なのである。つまり「箱モノ反対」だ。

 この記事のリコールが、名古屋市長の一連の話題に触発されたものであるのは言うまでもないと思う。市民からすれば、「あ、署名集めると市長を解任することができたんだ、知らなかった」というのが今までのところであろう。だが、名古屋市長が、テレビや新聞の特に東海版を賑わしたことで、このようなことが中津川市岐阜県)でも起こったのだと思う。河村市長は「民主主義の夜明け」とかいうタテマエを言っていたけど、皆の民主主義が少しは目覚めたということだろう。これはこれで面白いことだ。

 しかし、私が着目しているのはそこではない。これは所詮一過性のもので、単なる流行やブームに近いものであると思う。着目すべきは、「箱モノ反対」の方である。この流れは、早くは自民党政権時代、バブル崩壊直後から続いている。それに遅れを取るような形で、地方にその動きが出始めたところが非常に興味深いし、何か読むべき時代の流れがあると思う。そこでこれについて考察してみる。

 そうすると、ひとつ分かることは、既にそういった施設が事実、不要になってきていることが挙げられると思う。高度経済成長、そしてバブルと、日本は、右肩上がりで、人口も税収も増える一方であった、この状況下で施設が増えることはむしろ必然であったと言えよう。しかし、それが昨今、少子高齢化となり、人口も税収も実質的には減る一方、このような選択が為されることがむしろ必然となってきたのであろう。

 そして次に、何故地方へのこの流れは遅れて来たのかということである。これは難しい問題ではるのだけど、私が思うにこういうことであると思う。人は、大きいことは分かりやすい。例えば、テレビで、「公共事業200億円」とか言うと、「えーっ」となるが、「下水処理施設2億円」と言っても、「まあ、家5〜10軒文か、へ〜」となると思う。まず一つ目はこういった数字的な分かりやすさの話が挙げられる。そして、こちらの理由が大事なのだけど、「そういった公共施設が、事実ありきたりで足りている。そして、ほとんどの市民がそれを実感として感じ始めた。」ということであると思う。つまり、道や公共施設は日本のもうほとんどにおいて、これ以上「必要ない」のであり、ほとんどの人が「満足している」のである。

 そして、この考察から、これからを読まなければならない。つまり、今までは「政治とはインフラ整備のこと」(田中角栄の新幹線の事例が顕著だが)であったのが、もうすでに「インフラ整備の政治は完全なる時代遅れ」なのである。自民党が失脚した理由も深くはここにあるかもしれない。かと言って民主党がこの流れを読み切っているかというとそうゆうわけではないと思う。(特に小沢氏とか)

 では、これからの政治は何を目指すべきなのか。高齢化とかの福祉的サービスか?それとも生活弱者への社会保障的サービスか?私はどちらでもないと思う。本当の住みよい国、住みよい地域とは何かということを追い求める政治がこれから必要になってくると思う。具体的には、市民同士、国民同士の互助体制システムの構築であると思う。つまり、これから向かうべき政治は、小さな政府であり、なるべく税金を徴収しなくても皆が住みよいと思えるような国や地域をつくる政治であると思うのだ。