17.荀子 現代語訳 不苟第三 三〜五章

三章

 君子は能力があってもそれはそれで好ましく、能力がなくてもそれはそれで好ましい。小人は能力が有ればそれはそれで醜く、能力がなくてもそれはそれで醜い。(●君子は能あるも亦た好く不能なるもまた好し)

 君子に能力があるならば、寛容さをもって簡素的確に人を啓発して導き、能力が無ければ、慎み敬い自分の能力のないことを自覚した上でへりくだって人に仕える。小人は能力が有ると、尊大となりその能力は偏っていて役に立たないのに人に驕り高ぶる。能力が無いと、人に能力があることを嫉妬し怨んで非難した上でその人の足を引っ張る。

 だから言うのだ。君子は、能力が有れば人もこの人に学ぶことを名誉なこととするし、能力が無くても人はこの人に告げることを楽しみとする。小人は、能力があっても人はこの人に学ぶことを賤しいことだとし、能力が無くても人はこの人に告げることを恥とする。

 ここが君子と小人の分かれ目である。

四章

 君子は、ゆったりとしていても隙がなく、潔癖であっても何かを傷つけることはなく、雄弁であっても争うことはなく、明察であっても厳しいわけではなく、しっかりと自分を通しても勝ち凌ぐことはなく、強くしっかりとしていても乱暴になることはなく、態度が柔らかくて従順であっても流れることはなく、恭しくて慎ましやかであっても窮屈にはならない。

 このように、物事の適度を得ていることを「至文」と言う。(●夫れ是を至文と謂う)

 詩経 大雅・抑篇に「ゆったりと、あたたかさのある、つつしみの人、これこそ徳の基本なり」とあるのは、このことを言ったのである。

五章

 君子は、人に徳があることを尊び、人のよいところを言うことがあっても、それはこびへつらうことではない。正義の信念とともに人の悪いことを悪いと直指することはあっても、それは誹謗やそしりではない。自分の善なることを言って舜や禹にも模擬して天地と同化しているとしても、それは誇張やハッタリではない。

 時とともに屈伸し、その従順であることは風になびくすすきやアシのようであるけれど、それは圧倒され怖気づいているわけではない。力強く突き進んで折れないところがあるけれども、それは驕り暴れているわけではない。

 これらは全て、義にのっとり、自分を変化させて応じることで、曲直に当たることを知っているからそうなるのである。(●義を以て変応し、曲直に当たることを知るの故なり)

 詩経 小雅・裳裳者華篇に「左へ左へいくときは、君子はこれをよろしくし、右へ右へといくときも、君子はこれを保つのさ」とあるのは、君子が義によって屈伸変応することを言ったものである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■ここは全て二章の延長で、不苟:いやしくもせず、ことの、目指すべき具体的項目と、その実践方法及び、それらが完成した時の効果を述べている。五章では、これらが全て義にのっとっていることを再び明らかにしている。

■ところで、義とは道理に当たることである。自分の側の行動が義に当たれば、それは礼となるわけである。形で例えるとわかりやすいが、義は四角で、礼は円である。自分の側から外に向かっては、正方形を形作るように厳密にこれを考慮し、実践しなければならない、これが義である。しかし、これは外に対しては円のような円さを作り出していくものであって、時間的空間的に大きな視野から見ると、潤滑性があり当たり障りのない円形の礼なのである。だから、礼と義は一致するべきである。二つの表現が為されるのは、この四角と円を使い分けるべきことを明らかにするためである。(偉そうに解説したが、これは持論のため、自分でも考えてみてください)義の角を削るのが礼とも考えられる。

思慮とは何か

 ソクラテスの思い出によると、ソクラテスは、その弟子(友人)達に、「思慮深くあること」を特に勧めたそうである。

 そこで、思慮とは何か?ということなのである。

 私が思うに、思慮とは、「遠くに思いを致すこと」であると思う。思いという表現を使ったのは、それが考えるということだけでなくて感じるということによっても起こり得るからで、致すという表現を使ったのは、「その思いを致すべきところ」が既にそこにあるからである。

 例えば、ある人は、勉強をよくしていて、言われないでも自主的にいろいろなことを勉強していたとする。しかし、学校のトイレットペーパーを、一回用を足すたびにロールの三分の一ほども使っていたとする。こういった場合、この人は思慮深い人であろうか。

 例えば、ある人は、勉強は嫌いで、言われたことも勉強に関することであったら全くしなかったとする。しかし、物を使うことは必要最低限で、食べ物についても必要以上を求めず、出された食べ物は必ず残さず食べていたとする。こういった場合、この人は思慮深い人であろうか。

 前者の人のことを考えてみると、前者の人は、「殊に自分のこと」に関しては思慮深い人と言えるであろう。なぜなら、嫌でも勉強をすれば、人に認めてもらえる機会が増えるから、自分の身が安泰になることを知っていてそのようにしているからである。遠い未来といったそこにある目的地を前提として「遠くに思いを致すこと」ができていることになる。

 後者の人の事を考えてみると、後者の人は、思慮深い人であるかどうかはわからない。なぜなら、物を使うことは必要最低限で、食べ物についても必要以上を求めず、出された食べ物は必ず残さず食べていたとしても、これはしつけや教育によるものである可能性がある。しかし、これは「人の言うことを聞くべき事」を何らかの理由で知っているわけで、その限りでは思慮があると言える。だが、その思いを致している部分は近いことばかりであるからには、決して思慮深い人と言うことはできない。

 しかし仮に、後者の人が、物を無駄に使うことがどういった悪影響や無駄を生んでいくのか予測してそうしていたり、食べ物が多くの手間をかけて作られ、またそれら食べ物自体が命であったことに思いを致した上でそうしているのなら、その人は思慮深い人であると言える。しかし、こういったことに思いを致すことができる人は、勉強をした方が良いということにも思いを致すことができるはずであるからには、恐らく勉強を嫌うということはないであろう。

 こうして考えてみるに、思慮深いということと、人間として好感がもてることとは、必ずしも一致しないということになる。なぜなら、私は必ず後者の人の方に好感を持つであろうからだ。

 とすると、少し思慮深い人間を生み出すよりも、人の行動規範〜それは道徳と言われる範囲のものであるかもしれないが(儒学だとまさしく礼のこと)〜を身に付けた人間を生み出すことの方が有益なのであり、これらのことは別の事であるということになる。

 このようなことを考えたのは、他でもない。私が提唱している「新しい常識」の定着と深い関わりがあるからだ。「新しい常識」とは、現在は道徳や宗教の範囲にあるものであって、これを人類に定着させるということは、「人類全体を思慮深くすること」と同じなのではないかと思ったからである。もし同じだとすると、それはとても難しいことである。それがどうして難しいことなのかは、あまり思慮深いとは言えない人を思慮深い人にしようと考えたことがある人なら分かると思う。この一人に施すことさえ難しいことを、六十億人の人類全体に施すことなど考えただけでも途方もないことだ。しかし、後者の方の人を作り出すような考え方なら、かなり現実味を帯びてくる。ということが今回の考察で分かった。

 そもそも、人類が「人権」に目覚めたことも同じようなことなのである。昔は、日本では士農工商、欧米でも貴族と平民と奴隷、インドではカースト制度(これは現在でもある程度あると聞くが)、といったようなことが当たり前であった。特に奴隷制度などは、この中でも下劣なること最たるもので、わずか百年そこそこ前までこれが当たり前だったと思うだけでも、人類の恥として赤面せずにはおれないことである。

 しかし、思慮深い人は、この奴隷制度が存在している当時から、この制度がおかしい制度であることに気が付き始めていた。なぜなら、この思慮深い人は、奴隷が当たり前という常識を越えて「奴隷も自分と同じ人間である」という遠いところに思いを致していたからである。そして、「人権」という概念が確立され、「奴隷も自分と同じ人間である」ことは、思いを致すことが近いところとなったわけである。

 こうして考えてみるに、私は、人類全体を思慮深くしようとするのではなくて、現在常識と言う壁に阻まれて遠くなっているこの「新しい常識」を近いところに持ってこなければならないのである。