思慮とは何か

 ソクラテスの思い出によると、ソクラテスは、その弟子(友人)達に、「思慮深くあること」を特に勧めたそうである。

 そこで、思慮とは何か?ということなのである。

 私が思うに、思慮とは、「遠くに思いを致すこと」であると思う。思いという表現を使ったのは、それが考えるということだけでなくて感じるということによっても起こり得るからで、致すという表現を使ったのは、「その思いを致すべきところ」が既にそこにあるからである。

 例えば、ある人は、勉強をよくしていて、言われないでも自主的にいろいろなことを勉強していたとする。しかし、学校のトイレットペーパーを、一回用を足すたびにロールの三分の一ほども使っていたとする。こういった場合、この人は思慮深い人であろうか。

 例えば、ある人は、勉強は嫌いで、言われたことも勉強に関することであったら全くしなかったとする。しかし、物を使うことは必要最低限で、食べ物についても必要以上を求めず、出された食べ物は必ず残さず食べていたとする。こういった場合、この人は思慮深い人であろうか。

 前者の人のことを考えてみると、前者の人は、「殊に自分のこと」に関しては思慮深い人と言えるであろう。なぜなら、嫌でも勉強をすれば、人に認めてもらえる機会が増えるから、自分の身が安泰になることを知っていてそのようにしているからである。遠い未来といったそこにある目的地を前提として「遠くに思いを致すこと」ができていることになる。

 後者の人の事を考えてみると、後者の人は、思慮深い人であるかどうかはわからない。なぜなら、物を使うことは必要最低限で、食べ物についても必要以上を求めず、出された食べ物は必ず残さず食べていたとしても、これはしつけや教育によるものである可能性がある。しかし、これは「人の言うことを聞くべき事」を何らかの理由で知っているわけで、その限りでは思慮があると言える。だが、その思いを致している部分は近いことばかりであるからには、決して思慮深い人と言うことはできない。

 しかし仮に、後者の人が、物を無駄に使うことがどういった悪影響や無駄を生んでいくのか予測してそうしていたり、食べ物が多くの手間をかけて作られ、またそれら食べ物自体が命であったことに思いを致した上でそうしているのなら、その人は思慮深い人であると言える。しかし、こういったことに思いを致すことができる人は、勉強をした方が良いということにも思いを致すことができるはずであるからには、恐らく勉強を嫌うということはないであろう。

 こうして考えてみるに、思慮深いということと、人間として好感がもてることとは、必ずしも一致しないということになる。なぜなら、私は必ず後者の人の方に好感を持つであろうからだ。

 とすると、少し思慮深い人間を生み出すよりも、人の行動規範〜それは道徳と言われる範囲のものであるかもしれないが(儒学だとまさしく礼のこと)〜を身に付けた人間を生み出すことの方が有益なのであり、これらのことは別の事であるということになる。

 このようなことを考えたのは、他でもない。私が提唱している「新しい常識」の定着と深い関わりがあるからだ。「新しい常識」とは、現在は道徳や宗教の範囲にあるものであって、これを人類に定着させるということは、「人類全体を思慮深くすること」と同じなのではないかと思ったからである。もし同じだとすると、それはとても難しいことである。それがどうして難しいことなのかは、あまり思慮深いとは言えない人を思慮深い人にしようと考えたことがある人なら分かると思う。この一人に施すことさえ難しいことを、六十億人の人類全体に施すことなど考えただけでも途方もないことだ。しかし、後者の方の人を作り出すような考え方なら、かなり現実味を帯びてくる。ということが今回の考察で分かった。

 そもそも、人類が「人権」に目覚めたことも同じようなことなのである。昔は、日本では士農工商、欧米でも貴族と平民と奴隷、インドではカースト制度(これは現在でもある程度あると聞くが)、といったようなことが当たり前であった。特に奴隷制度などは、この中でも下劣なること最たるもので、わずか百年そこそこ前までこれが当たり前だったと思うだけでも、人類の恥として赤面せずにはおれないことである。

 しかし、思慮深い人は、この奴隷制度が存在している当時から、この制度がおかしい制度であることに気が付き始めていた。なぜなら、この思慮深い人は、奴隷が当たり前という常識を越えて「奴隷も自分と同じ人間である」という遠いところに思いを致していたからである。そして、「人権」という概念が確立され、「奴隷も自分と同じ人間である」ことは、思いを致すことが近いところとなったわけである。

 こうして考えてみるに、私は、人類全体を思慮深くしようとするのではなくて、現在常識と言う壁に阻まれて遠くなっているこの「新しい常識」を近いところに持ってこなければならないのである。