易と人生哲学 を読んで

易と人生哲学 (致知選書)

易と人生哲学 (致知選書)

とても良い本だった。

易のことを占術の本と勘違いしている人は是非とも読んでいただきたい。

というのも、運命とは、「宿命」ではなくて、「立命」または巡る方の「運」であるということが主眼に置かれて書かれているからだ。

若輩の私が言うのもなんであるが、易は自分の生き方を変えるためにある。運用してこそ価値のあるものなのだ。これこれこうなると決めつけるのは、運命ではなくて宿命である。一介の易を知る者として、「運」とかのことを聞かれたとき、私はこう答えてきた。

「例えば、今、目の前にあるコップの水をどうするか、ということは、自分で決めることができますね。飲んでもいいし、そのままにしてもいいし、倒してこぼしてもいい。

これは自分で決めることができる。こういったように、自分の未来は自分の行動でどんどんと変えていくことができる。

ただ、今の話だと『コップの水をどうするか』という単純なことだったから、やり方がよく分かっている。

けれど、人生はこんな単純じゃない。

分かりやすいところで、金持ちになりたいとしても、金持ちになる方法はいくらでもある。そういったわけで、その中からその時と場合に応じた方法を見つけ出すことは難しい。

だから、多くの人はその方法を見つけ出すことができず、『自分が金持ちになれないのは運命だ』と諦めてしまう。

けれど、それは違う。未来は変わる。

しかし、そうやって勘違いしてしまうのもわからないでもない。というのも、資産家の家に生まれれば生まれた時から金持ちであるからだ。あなたが資産家の家に生まれていないのなら、それは変えることのできないことで、これがあなたの言うところの運命である。」

ここで、運命と宿命という言葉を使い分ければ良かったわけだ。運命は英語でfortuneであり、タロットだと車輪の絵だという。まさに、運命とはめぐる命のことなのだ。

他にも「易を勉強していれば何でも考えれば分かるようになるわけで、占いなどする必要はなくなる」というのも私と同じ考えであった。

細部では、私の考えとは違う所もあった。どちらでも理屈は通るので、これはどちらかが間違っているというわけでなく、正しい捉え方はいく通りでもある。ということだと思う。

その大きな部分として、「西洋学術的考え方」がこの本にはないように思われた。例えば、私は、マルクスヘーゲルに親しんでいたこともあって、弁証法的に易を理解している部分がある。そういったものが、この本には感じられなかったのだ。あと、科学的視点というのもあまり感じられなかった。その反面で、東洋思想にはやはり精通していて、「なるほど、これが正統な解釈だったのか」と思われるところは多くあった。

私は易を原典のみをテキストにして、独学でやったので、そういった意味でかなり独自の解釈をしているかもしれない。ただ、こういった大家の解説本と、全く違った方向に行っているわけではないので、運良く間違っていなかったということだと思う。変な解説本を読まずに、原典だけ読んでいたから良かったのかもしれない。

昨今、易を知る人は、ほとんど占術家ばかりで論語も知らなければ漢籍も読めない人が多い中、占術でない真の周易を極めた人として、やはり安岡正篤は偉大であり、貴重であると思う。