「知」と「賢」の違いについて

荀子を読んでいると、「知」と「賢」とが別概念として扱われていることがよく分かる。(これに付け加えて、荀子が人を評価する基準は、「知」でなくて、「賢」と「能」である。そして、賢者には位を授けて、能者には役職を割り当てるとなっている。)

知者とは、多くのことを知っている人であったり、計算が早い人であったり、推測がよく当たる人であったり、深いことまで考えることが出来る人のことである。

これはこれで素晴らしいことと思う。

しかし、それでは、まだ「賢者」とは言えないのである。

無窮を窮め、無極を逐わんとするか、あるいは亦止まるところ有らんか。

知者が賢者たり得ない理由とは、「知」はどんなことにも使えることである。止まるところがあって、初めて賢者となり得るのである。

止まるところのない知者が何をするかというと、

多くのことを知っているから、その知で人を圧倒して優位な立場に立ち、
計算が早いから、その知で臨機応変に対応して嘘をついて人を欺き、
推測がよく当たるから、その知で人の先回りをしては道を塞いで己を利して、
深いことまで考えることができるから、その知で自身のあらを隠す手段を講じておく。

これが知者であって賢者でない者が行うことのうちでも、知者と賢者の違いのわかりやすいこと極端なことである。

だが、これだけではない。

例えば、アインシュタインは、知者であったことは間違いなかったが賢者であったのであろうか?
最先端のロボットを開発している人は、知者であることは間違いないが賢者なのだろうか?
あるいは、IPS細胞を発見してそれを発表した山中教授は、知者であることは間違いないが賢者なのだろうか?
ケインズは、知者であることは間違いないが賢者であったのだろうか?
政治家や評論家や文章家になりたいと思い、知略を巡らしてその職業になった人は、恐らく知者であろうが賢者であるのだろうか?
多くのことを知っていて、計算も早くて、推測もよく当り、深いことも考えることができるのに、それを自分の中だけで愛でて、外に表さない人は賢者であるのだろうか?

無窮を窮め、無極を逐わんとするか、あるいは亦止まるところ有らんか。

特に今は、「止まるところ」が求められる世界になっている気がする。

そう思うのは私だけだろうか?