80.荀子 現代語訳 富国第十 三章-中

 かの君主が、色とりどりの衣服を着て、味とりどりの食事をして、財物を重ねてこれを所有し、天下を合わせてその君主となっているようなことは、これはただ単に淫らに驕り居て贅沢をしているだけではない。これは、天下を一つにして、千変万化の事変をうまく治めて、万物を人間に役立つ財として、万民を養って天下を兼ねて成長させることができるのは、その仁人に及ぶ者はないことを明らかにしているだけなのである。

 こういったわけであるから、その智慮は民衆を治めるのに十分であり、その仁の厚いことは民衆を安んずるのに十分であり、その徳の響きは民衆を感化するのに十分であるような人が、君主として相応しいわけであり、このような人が得られれば全てがうまく治まることとなるが、このような人を失ってしまえば全てが乱れることとなる。

 百姓というものは、智慮のある人を頼るものである。だから、お互いに協力し合って智慮ある人のために苦労して務め、この人を安んずることで、その智慮を養おうとするのである。また、その仁に厚いことを美とするから、死を恐れずにこの人を守り救って、その仁が厚いことを養おうとするのである。そして、その徳の感化を美とするから、この人のために装飾品や工芸品を作り出してこの人を飾り、そうすることで、この人の徳による感化を養うのである。

 だから、仁人が上にあるとき、百姓たちが、この人を貴ぶことは帝のようで、この人を慕うことは父母のようで、この人のために死をも厭わないことには、他の理由などない。つまり、この人が正しいとすることは誠に美しく、この人が居ることによって得られるものが誠に大きく、この人によって生みだされる繁栄が誠に多いからなのである。

 詩経 小雅・黍苗篇に「おいらの車に、おいらの牛に、おいらの家具に、おいらの着替え、おいらの荷物は整った、さあさ行こうよ、あの人のもとへ」とはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■地位ある人にはそれだけの功績が必要である。要はこのことだけを言っているのだけど、この一見なんの説明の余地もないことに、詳しい説明が入っている。世の中には、このことを勘違いして、「資本や地位を所有していることだけ」によって、自分が良い待遇を受けるべきと思っている人も多いのではないか。そして、当然のことながら、こういった人には実力がないわけであるから、誰もこの人を良しとせず、当然の結果として、誰もこの人を助けないのである。さらに言うなれば、人が人から助けを得られないなら無力であり、無力であれば何もできず、何もできないならば無能であり、無能であれば一匹夫であり、一匹夫であればぞんざいに扱われても仕方ない。