72.荀子 現代語訳 王制第九 十四章

十四章

 この故に、家畜を育てるべき時期にそれをするならば家畜類はよく育ち、家畜を殺すべき時期にそれをするならば草木も増え、政令も発するべき時にそれをするならば百姓もこちらと心を一つにして賢良の人もこちらに心服するのである。これが聖王の制である。

 草木が生い茂って育つ時、斧や鉞を山林に入れないのは、この命を無理に奪おうとせずその成長が絶たれないようにするためである。魚介類が卵をかかえて産卵を控えているとき、網やわなや毒薬を川や海辺に入れないようにするのは、この命を無理に奪おうとせずその成長が絶たれないようにするためである。

 春に耕して、夏に雑草を取り除き、秋に収穫して、冬にこれを蔵に仕舞う。このように四季にすべきことを誤らない。だからこそ、五穀が絶えることなく百姓は腹いっぱいに食べることができる。川や海辺での漁に関しては禁漁の時期を慎んで定める。だからこそ、魚介類が豊富となって百姓は蓄えをすることができる。木材などの森林資源を取ることにもその時期を誤ることがない。だからこそ、材木や薪が豊富となって禿山ができることなく百姓は備品を備えることができる。これが聖王の用(便利を達すること)である。

 上は天の動きを察して下は地に施すことを忘れず、天地の間に多くのものが満ち溢れて備わり、さらにその上で万物に施しを加える。施しは微かなことの積み重ねであるけれど、そのことによってもたらされる恩恵は明らかなものであり、施しを行う時間は短いけれど、その効果は長く持続し、施しを行う領域は狭いのだけど、その恩恵と効果が現れる範囲は広いものとなる。目に見えて受ける効果と恩恵は神明博大であるけれど、施しは至約(極めて簡約)なのである。だからいうのだ、一つ与えて一つを奪い、そうして人を治めるならば、これこそが聖王であると。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■時期を間違えなければ、奪うことも与えることになる。これはとても神妙な働きだと思う。荀子は本当に賢いなと思う。これの最もわかりやすい例えが、農業における間引きであるだろう。例えば、菜っぱを育てるとき、種をまいて芽が吹いて、そのまま任せるままにして、間引きをしないならば、この菜っぱは密集して生えて、お互いがお互いの成長の邪魔をすることになり、沢山出来るどころか貧弱なものができるだけとなる。さらにこの上、この菜っぱは花をつけることすらできない。これに反して、間引きを適切な時期に行うならば、その間引いた菜をも食べることができ、さらに、できた菜っぱは全て立派なものとなり、この上、食べきれなかった分に関しては立派な花をつけて来年の種を多く残してくれることとなる。適切な時期、適切な処置、何ごとにおいてもとても重要なことと思う。