何ごとにも基準が肝要3

まえの続き

ケイゴーサ「では、ソクラテス、かの美しき徳の宮殿への道のりを語ってはいただけませんか」

ソクラテス「よし、やれるだけやってみよう。これからそれを語るに当たって、その徳の宮殿のことを、ぼくはときどきギリシア語風に“アレテオン”と言うかもしれないことと、また、ときどき君に同意を求めることを了解してほしいのだ。というのも、ここには、せっかくぼく以外の人もいるのに、ぼくが一人でしゃべり続けることは甚だ興ざめたことだからね」

「もちろんそれらのことを了解しましょう」

「ぼくは、かの麗しき徳の宮殿はこのような場所にあるべきであると思うのだ、

はるか彼方の地の果ての はるか彼方の空の果て 
見えぬ人には見えることなく 見えぬ人にも見えることあり 
見えて認めて知るならば 心魅了し離さぬけれど 
霞にまかれて遠ければ 忘れて離るも常のこと 
されど葉が落ち花咲くことも 同じく常のことなれば 
探して求めて思いを馳せて 入りて歩むは古き小道か

こういったことであると思うのだけど、君はどう思う?」

「少しだけ、気にかかることがあります。というのも、『見えぬ人には見えることなく 見えぬ人にも見えることあり』といった表現は、何かその意味自体が破たんしているように思えるのです。あとの部分に関しては、いやしくもこのアレテオンを目指したことのある人なら、ほとんど了解できることと思います」

「この部分に関しては、確かにそのようにも思える。だが、よく考えてみてくれたまえ。ぼくたちは、この宮殿のことをしっかりと見たことがあるだろうか?ぼくは、自分がこの宮殿をはっきりと見るのはもちろんのこと、この宮殿を事実はっきりと見た人と会うことさえこの上なく難しいことであると思うのだ。ならば、ほとんどの人が『見えぬ人』でありながら、それを『見たと思う人』になるのではないか?」

「確かにそういったことになります。しかし、それだけではなくて、もう少し違った意味もこの表現には含まれていると思うのです。というのも、この宮殿を目指す人は、この宮殿を『見たと思う』ようなきっかけとして、事実この宮殿を何らかの形で見ていると思うからです」

「ぼくも、ムーサの力を借りているからには、そういった絶妙な表現ができているのかも知れない。事実、なんのきっかけもなくこの徳の宮殿に入ろうとし、その古き小道をひたすらに歩いている人は、そうそう滅多にはいないのだ。では、この古き小道の道のりについて明らかにしようじゃないか」

「いいですとも、ただ、この徳の宮殿に至る道が、どうして古いのか、ということと、どうして細い小道であるのか、ということに関しても語られることを期待しています」