フン、なにが維新だ、改革だ

 最近、政治関係で、「維新」という言葉を用いる人や団体が多い。

 この流れは、別に今に始まったことでなくて、もう、十年以上も前から、自民党政権がいつも使っていた言葉と同じだ。そのときは「改革」だったのだけど。

 この言葉をたやすく使う人や団体は、有名人にでもなればいい。確かにあなたたちは、世相を読む目があり、それに沿って行動するだけの行動力と力がある。だが、あなたたちは政治家であってはならない。それは、「維新」と「革」の言葉の意味を、そしてその言葉の重みを分かっていないからだ。

 維新の意味がわからないあなたは、現代の象徴たる貨幣の最高紙幣に印刷されている偉大な賢人の著書をしっかりと何度も読んで、日本史をしっかり勉強しなおさなければならない。そして、その賢人がどのような気持ちで、その偉大なる著書を出版し、その偉大なる著書の内容を書きあげたのか、しっかりと想像しなければならない。そして、その偉大なる著書が、日本史においてどのよのような意味を為しているのかしっかりと理解しなければならない。それができたら、あなたは「維新」という言葉を使ってもよろしい。

 革の意味がわからないあなたは、易経に書かれている「革」のところを暗記して、そのあとに、最低でも四書を一度はすべて読み、できれば荀子やその他の儒学の本を読んで、「革」がどういう事象を意味するのか、しっかりと理解しなければならない。それらのことを行って、昔の聖人や君子たちが、どいうった気持ちで「革」を行ったのか、しっかりと理解しなければならない。そして、その彼らの行動に思いを致し、目がしらが熱くなったのら、あなたは「革」という言葉を使ってもよろしい。

 それができていないのに、あなたたちが、その言葉を使っても、その言葉に行動が及ぶことは決してないであろう。あなたたちは、「維新」と「革」という言葉を利用しているに過ぎない。あなたたちは、その言葉を利用して、国民を騙しているに過ぎない。


 つまり、敢えて言う必要はないかもしれないが、「維新」や「革」といった言葉は、現在の日本の社会状況からすと、とても受けがいいのだ。現在、日本は、皆が将来への閉塞感と、先行き不安に悩まされているのだ。そういった社会に、すべてを変えて一新するイメージを持つ言葉「維新」や「革」をもってこれば、みんな飛びついてしまう。

 しかも、その言葉が、自分よりも賢くまた権威もあると思われる人から発せられれば、それに潜在的にも頼ってしまう。「東大卒の賢い人が、それをやってくれると言っているんだから、きっとなんとかしてくれるんだろう」と、これは「あの有名な占い師の先生が、こうすれば私は幸せになると言っているんだから信じればなんとかなるだろう」と、思わすことに似ている。というか、はっきり言うと、盲信的カルト商法のやり方とほぼ同じ手口だ。不安に付け込んで利益をむさぼることに過ぎないのである。そこで、「騙されるやつが悪いんだ」と言うのが、カルトの詐欺教祖であるのだけど、政治家がカルトの詐欺教祖と同じであっていいのか。

 なんで、私が、そこまで、この「維新」や「革」を軽々しく使う人を批判できるのか言うと、彼らの理念は、調べなくてもわかるくらい浅薄であるからだ。日本で、本当の「維新」や「革」が起こるのは、まだ最低でも10年以上は先だ。「維新」は、先も述べたように、日本の賢哲達をして、輸入をして、やっと為し得たことである。「革」とは、既日にしてこれを革む、という易の言葉が指し示すように、そうならざるを得なくなる時勢をして、成ってしまうことなのである。そこで活躍する人は、その時勢を少し手助けするに過ぎない。

 それにそもそも、「維新」や「革」が行われたとき、そこにどれだけの重厚な知恵、それはある意味で新しいことであったのだけど、があったのか、想像することは、少し想像力のある人からすればさほど難しいことではない。そして、それらの言葉を使っている人々に、この重厚な知恵があるのかどうか判断することは、これまたさほど難しいことではない。

 このような理由から、私はそのように言う。