言志四録を読んで2

 今日、言志四録を読んでいたら、心と体について書かれていた。

 心は形が無いから天物、体は形があるら地物として、人間の構成である心と体が、陰陽的に解釈されていた。この部分については納得できたのだが、次の部分については納得できなかった。

 つまり、善は、天物である心に宿っており、悪は、地物である体にあるとする説である。

 目ありて美色を好み、耳ありて淫音に流れ、鼻ありて美臭に耽り、口ありて美食を求め、身体ありて安逸をほしいままにす。だから、これらが無くなれば、悪を貪る気持ちは無くなる、というようなことが書かれていて、確かにそうだけど、とは思ったのだけど、悪を為すの心は、必ずしもこの身体的五感のみに依っているのではないと思う。なぜなら、人の不幸を喜ぶ気持ちは、多かれ少なかれ誰にでもあるし、それは体に起因していない。

 最近分かり始めたのだけど、どうも、こういうことにこだわってしまうところが朱子学と言われるものの欠点の一つであるように思われる。つまり、孟子性善説にこだわり過ぎている点、理論でなくて精神論に偏り過ぎている点だ。

 そういった意味で、江戸時代や、西洋哲学が入る前の儒学は、いささか偏狭なところがあったのではないかと思う。こういった偏狭な朱子学の影響や、儒学の神髄が何らかの形で蔽われた部分が、儒学儒教とし、その権威を貶めてしまったのではないかと思う。また、明治維新について詳しくは無いのだけど、こういったことは、何らかの形で明治維新に悪影響を及ぼしていたのではないかとも思う。というか、こういった偏狭さが打ち砕かれたのが明治維新なのかもしれないけれど。

 儒学が廃れた今、勝手に独学して、しかも大したことない私の方が、こういったことに気がつく時点で、やはり何か、偏狭な何かがあったことは間違いないように思う。