荀子 天論 翻訳3

天論 三 前半

 天職(目に見えない天の働き)が既に立ち、天功(天職によって為される化成やそれに伴う現象への作用)が既に成り、ものに形ができて神(精神:注1参照)が生じたならば、好悪喜怒哀楽が蔵される。これ(この天の不思議な働きによってできた自然な性情のこと)を天情と言う。耳目鼻口身(聴覚・視覚・臭覚・味覚・触覚を司る器官)は、おのおの外界と接して、それを感じるのだけど、それらの感覚が混ざることはない。そこでこの五官を天官と言う。心の中は虚しくこれらを受け入れるばかりであるが、これらを統括しているから、この心の働きを天君と言う。財(生産物)は、類(注.2)ではないが類を養ってくれる、これを天養と言う。類に順う者には福をなして、類に逆らう者には禍をなす、この自然な働き、これを天政と言う。


注1.神…韓非子解老篇に神について触れた部分がある。それによると、精神、または精神力のこと。精神力には、ストックとフローがある。つまり、目を凝らして細かいものを見ればそれは見えるが、疲れる。神の使い方がうまい人は、目を凝らさずともその細かいものを見る。前者は、多くのフローを用いてストックを多量に減らすが、後者は、少ないフローで用いるストックも少量で済む。

注2.類…私のテキスト(岩波文庫版 荀子)によると、人類と訳してあるが、それではこの言葉の奥深さが殺がれると思い、類のままにしておいた。漢和辞書を調べてみたが、やはり、「たぐい、グループ、種類」と言った意味が書かれている。

感想
 内容が濃すぎる。この言葉の定義だけのことに、いろいろな深い意味が蔵されている。例えば、天君が、空虚であると同時に支配するということは、まさに老子に言われる理想の君主のことであり、この国家の理想が、既に自然に一個人に天から授けられていると考えることもできる。また、天官についてのことは、今まで気がつかなかった。つまり、臭いと味は同じものから発せられても、全く別個のものなのである。見た目と音にしても然り。五感は、全く別個のものを感じているのである。天養については、解釈が難しいが、例えば、食人したとしても、食われる人は、食われる時、人ではなく「食物」になるのであって、その限りにおいて類ではないわけである。だから、類に非ずして類を養うのである。天政についても、あまりにも当たり前のこと過ぎるが故に気がつかない、とても重要なことである。身近な言葉だと「郷に入りては郷に従え」だ。