同性愛者問題

 最近、BBCworldでは、同性愛者についてのことがよく報道されている。

 一応先に断っておくが、私は同性愛者を擁護する気も無いし、かと言って、批判する気も無い。だが、事実として、同性愛者のカップルを見たら、気色悪いとは思うだろう。男と男が手を組んで歩いていたりするのを見たら、ものすごい驚いた表情とともに必ずそちらを振り返ると思う。

 最近になって話題になる同性愛者の権利、そして、この世界でも認められつつある権利、これは一体何を意味するのだろう。私が思うに、というか、世間一般の通説だろうが、これは「人権概念の拡大」を意味すると思う。さらに言うなれば、「個人の“思想”の自由という概念の拡大」とも言えると思う。

 これがどういう意味なのか、私の冒頭の率直な意見から読み解いてみる。

 私が、同性愛者を見た場合に気色悪いと思うのは、生理的なものだと思う。というのも、私が人間である以上、人類の発展を望む本能がDNAに記憶されているはずであるからだ。同性愛とは、そのDNAの記憶からすると、全くの非常識である。「これでは人類は発展しない。」そういったDNAの直感が、私の脳の拒否反応物質を生み出し、それが不快感となって私の感情を刺激することで、同性愛を気色悪いと感じるのだろう。

 だが、人間には精神がある。人間の精神は、時として物質やDNAの常識の範囲を越える。例えば、自殺などはまさにその典型である。自分で自分の命を絶つことは、私の仮定したDNAの常識の範囲を越えている。だが、それは頻繁に起こっている。戦争と言う共食い行為も、まさにその典型である。なのに、それは頻繁に起こっている。このように、精神が肉体や生物の持つ常識の範囲を越えることは人類が始まって以来、常識となっているのだ。

 ではなぜ、同性愛は認められないのか。それは、共感しづらいからである。自殺をしたいと思ったことは、誰でもあるだろう。他者を排除してでも、自分の優位を保ちたいと思うことは誰でもあるだろう。だが、同性に対して、そういった気持ちを起こす人は、あまりいないのである。そして、このことには、「常識と言う記憶」も関係しているのだ。私は今までの理論を全て「DNAの記憶」に頼ってきたが、実は私の感情を支配しているのは、その記憶だけではない。生まれてから、成長する過程で無意識にも育てられた「常識と言う記憶」でもあるのだ。そして、その「常識と言う記憶」は、男性の形をした人間は女性の形をした人間を、女性の形をした人間は男性の形をした人間を、それぞれ好きになる。と私に訴えかけてくる。

 つまり、人間の性という「物質的な形」が、心という「精神の形」を理解させないこと。また、「精神の形」を、「物質的な形」で判断すること。これが、同性愛に対する嫌悪感や偏見の根底にあるのだ。してみると、同性愛を認めることとは、「物質的な形」を越えて、「精神の形」を尊重すること、物質から精神を乖離することでもあるのだ。そして、これは、人間は何かという「常識と言う記憶」を刷新することも意味している。

 この同性愛者を認める動きは、人類の新しい常識にとって、萌え芽やきざしと言えるものかもしれない。

イギリスの同性愛者だけが住む地域
http://www.bbc.co.uk/news/magazine-16962898#TWEET75178
アフリカの同性愛について国連が発言
http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-16963339#TWEET75239
アメリカで同性愛者が法的に結婚
http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-17022104#TWEET77560