ヘロドトス「歴史」を読んで1

 岩波文庫版のヘロドトス「歴史」を読んでいる。今、上の120ページまで読んだ。かなり面白い。そこらの二流小説を読むくらいなら、これを読んだ方がはるかに有益だし、受け得る享楽も甚だ大きいだろう。(小説はほとんど読んだことないけど)

 ヘロドトスの歴史叙述はある意味というか、現在の歴史書の観念からすると、かなり独特と思う。プラトンの書き方に似ていると言えば似ているなぁ。

 どういう意味かと言うと、まず、年代順に話が並べられていない。そして、いきなりあらぬ方向に話が飛ぶ。例えば、楽しいおしゃべりのように。現在の歴史書の観念からすると、無秩序と言っても過言ではないような歴史の書き方がされている。ただ、全部通読してみれば、なんとなくまとまっているのだろうという意味で、プラトンの対話形式の論述に似ている。著者の年代や地域が近いし、ほぼ同じ文化圏(時間的にも空間的にも)なのだから当然と言えば当然か。

 あと、ヘロドトスの歴史哲学が面白い。因果応報ということを重視している。というか、ヘロドトスが歴史を調べたときに、あまたの事実(史実)からその因果の法則を読み取ったのかもしれないし、またそれを伝えたいと思って「歴史」を書いたのかもしれない。例えば、戦争の敗因を戦争の動機や、家系の出自などに求める部分がある。

 次に、客観的である。私見のようなものは述べてあるのだけど、多分それは、当時の常識からすると「逆のこと」ではないかと思われる。つまり、メディア(前600年ころに現在のイランを領有)の始祖は、デイオケスという人物であった。彼は、裁判を正義に基づいて行い、そのことによって信望を得てメディアの初代の王となった。この経歴などからして、恐らく、当時の風評は、「デイオケスは賢人だ、正義の人だ」と言うものであっただろう。だが、ヘロドトスは最初から彼を「独裁者の夢に取りつかれた者」と表現している。そして、後の記述でもあくまで「奸智に長けた者」と表現しているのだ。このような記述は随所にみられる。

 ただひとつ、歴史書として現代のモノと変わらないこともある。それは「戦争が主役」ということだ。つまり、戦争を起点にして、「なぜそのような戦争が起こったのか」「どんな戦争だったのか」「戦争の後どうなったのか」と語られているのである。これは、ヘロドトスがどうとか、現代の歴史書がどうとか、そういったレベルの話でないと思う。人間がいかに、「欲に基づいて動く者」かということだろう。