嫌いな人に関する考察 憎しみを乗り越えて クリトンの続編として ソクラテス風

 話のまとめ(最後にあったのですが、わかりやすいとご意見がありましたので、最初にしました。このまとめを読んで内容を詳しく知りたいと思った方は、少し長いですが、ソクラテスとクリトンの対話も読んでみてください。私の報酬はあなたが少しでも楽になることです。もしこれを読んで少しでも気持ちが楽になっていただけたり、実際の問題が少しでも解決されれば、それが私にとって一番の報酬です。)

 人を許したいと思うとき、自分の憎しみという気持ちをなんとかしたいと思うとき、最初にあなたが何に怒っているのかしっかり考えてみましょう。そして、次に、その人を理解してあげることです。そうすれば、大体の憎しみは解決します。憎しみとは、お互いの利害関係や欲望・願望・こうなってほしいという気持ちが衝突したときに出る副産物です。例えば、ビリヤードで玉と玉がぶつかるとき、必ず音が出ます。誰かと誰かの利害関係や欲望・願望・こうなってほしいという気持ちがぶつかるとき、そこに、憎しみが発生してしまうのです。だから、玉と玉がぶつからないように、話し合いと対話でお互いの進路を調整し、ぶつからないようにすればいいのです。自分自身とその人を理解することができれば、調整もしやすくなるでしょうし、クリトンやソクラテスのように、「重大な目標」のために自分だけが譲歩してあげることもできるかもしれません。それが一番いいのではないかと思います。しかし、どんな手(不正をすること)を使ってでも自分の進路を押し通してくる人がいます。こういった人は、ごく稀にいます。それに対処するのに、もしも、暴力といったような不正を用いるようでは、その人と同じ「不正を行う人」になってしまうのです。難しいことですが、そういったときは、この対話を思い出して、少しでも善と正義を愛する人に近付いてください。

 ソクラテスは、哲学的探求の過程でいろいろな人から逆恨みを受けてしまって、裁判にかけられ、当時のアテネの法律に従って死刑となった。もちろん今で言うなら冤罪で、変な言いがかりを付けられた上で、法律を悪用した仕組まれた裁判で死刑判決を言い渡されたのだった。しかし、当時の治安は今より劣っていて、助け出そうと思えば助けられる状況だった。そこで、ソクラテスの友人クリトンが、死刑執行される前に、ソクラテスに逃げるように説得するのだった。この場面が描かれた「クリトン」で、ソクラテスは、逃亡の説得を試みるクリトンを逆に説得して、甘んじて死刑を受けることを宣言するのだった。この「クリトン」の延長という設定で、この対話を続けたいと思う。



1.クリトンの悩み

クリトン「ソクラテス、君は実に素晴らしいよ。ぼくは、君が友人であったことを、ぼくが死ぬまで一番の誇りとするだろう。」

ソクラテス「ありがとう、クリトン。ぼくも君が友人であったことを誇りにするよ。と言っても、ぼくはもう死んでしまうんだけどね。」

クリトン「ところで、ソクラテス、ぼくはまだひとつだけ納得できないことがあるんだ。この問いに答えてくれるかい。」

ソクラテス「もちろんさ、他でもない君の頼みだもの、なんでも言ってくれたまえ。」

クリトン「ぼくは、君を死刑に追いやった奴らが憎いんだ。できることなら、今からでもそいつらを君と同じ処遇にしてやりたい。なのに、君はというと、ぼくがこんなにも憎しみに捉われているのに、全くそんな様子がないじゃないか。まったく、君だからこそのことだと思うんだけど、それはなぜなんだい、ソクラテス。」

ソクラテス「クリトン、ぼくは君のその正直なところが好きなんだ。だって、憎しみを持つことは恥ずかしいことなのに、それを臆面も無くぼくに告白している。クリトン、君もそう思うよね、憎しみを持つことは恥ずかしいことだよね。」

クリトン「もちろんさ、だからこそ、君にそれを尋ねているんだ。」

ソクラテス「じゃあ、まず始めに、なぜ君が彼らを憎しむことになったのか考えてみよう。多分ぼくはこうゆうことだと思う。君は、ぼくという大事な友人を、彼らが死刑に追いやったから憎しみを持つことになった。そうだね、クリトン。」

クリトン「そうだ。」

ソクラテス「さらに言うなら、ぼくが死んでしまうと、君がぼくという大事な友人を失うことにより、君に危害が加わる、だから、彼らに憎しみを持つことになった。だから、君は自分の利害関係から彼らに憎しみを持つようになった。そうだよね、クリトン。」

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第二章 憎しみの正体

クリトン「そうでないと言いたいところだけど、同意するしかないようだね。ただね。もうひとつ、彼らが、君の裁判を通じて不正をしたことも、憎しみの原因のひとつであるとぼくは思っているんだ。」

ソクラテス「それは分かっているんだ、クリトン。だけど、話を簡単にするために、そのことは後回しにして、とりあえず、君が自分の利害関係から、彼らに憎しみをもつようになったことだけについて考えてみよう。そうすると、君は、彼らが、自分に、それが直接でないにしても、危害を加えるから、彼らに憎しみを持つこととなった。その危害の加えるに至ったやり方が正義(ただ)しいか、正義しくないかは別としてだ。自分に危害が加えられたとき、危害を加える人に憎しみを持つことは果たして正しいことななのか、そうでないのか、まずこのことについて考えてみよう。話を簡単にするために、こういう話を考えてみよう。もしも、ある人が剣を持ってきて、いきなり自分を切りつけてきたとする。そして、そのことが原因で彼を憎むに至ったとする。そのとき、なぜ彼を憎むことになるのだろうか。それは、切り付けられれば、当然痛いし、どこかが動かなくなれば、それが原因で仕事ができなくなって、ひもじい思いをするかもしれない。でも、本当にこれが、彼を憎むに至る正当な理由なのだろうか。ぼくが思うには、これはある範囲のことでしかないと思うんだ。だってそうだろ、クリトン。」

クリトン「それはどういう意味の範囲なんだい、ソクラテス。」

ソクラテス「範囲という言葉が適切であるかどうか、それは難しいところなんだけど、彼が憎しみを持ったのは、彼に自分が健康で生きたいという願望があったからだと思うんだ。そんな人はいないと思うけど、もしも、死にたいと思っている人や、怪我をしたいと思っている人がいたら、彼らは剣で切りつけられたとき、その人を憎むどころか、喝采するんじゃないだろうか。だから、憎しみは、ひとつは自分がこうでありたいと思っていることに反することが起きたときに発生すると思うんだ。そう考えてみると、もしも、その人が健康で生きたいと思うよりも、もっと重大な目標を持っていた場合には、たとえいきなり剣で切りつけられたとしても憎しみは起こらないことになる。だから、健康に生きるという目標よりももっと重大な目標が存在するならば、憎しみを持つことは正しくないということが証明されると思うんだ。」

クリトン「君の言うことに同意するよ。そして、君は、もちろんその『もっと重大な目標』を知っていて、それをこれから明らかにしてくれるんだよね。ソクラテス。まあ、もし君がそれを明らかにしないと言ったところで、僕はてこでも君にそれを言わせようと思っているんだけどね。」


第三章 憎しみを越えるもの

ソクラテス「分かったよ、クリトン。じゃあ、その健康に生きることよりももっと重大な目標をこれから明らかにしていこうじゃないか。このことを話すときにいつも僕が出している話が一つあるんだ。それは君もよく知っている話だ。そう、それは他でもない、ホメロスイリアスに出てくるアキレスの話だ。君はこの話をよく知っていると思うけど、話をもっと明らかにするために、ぼくの口から説明するよ。アキレスは、半神の英雄で、その母は女神ティティス。ギリシア軍がイリアスを攻めたとき、彼もその軍に従軍していた。その戦いは激戦を極めて、こちらがやればあちらがやるという混戦状態だった。そんな中、アキレスの大の親友が相手の大将であるヘクトルに無残に殺されてしまったんだ。アキレスはその雪辱をはらすため、ヘクトルを殺そうとする。でも、ティティスが彼の耳元でこうささやくんだ。『もし今あなたがヘクトルを殺すと、あなたも近いうちに死ぬことになる』とね。これに対してアキレスは、『母上が私を思ってそういってくださることは分かります。しかし、私は死ぬことよりも、我がギリシア軍がやられたままで帰ること、親友の仇が目の前にいるのにそれを見過ごすというこの上も無い恥を受けたままでいることがどうしても我慢できないのです。』と、そしてアキレスはヘクトルを殺し、戦いが終わったあとティティスの予言どおりに死んでしまうことになる。アキレスは死んでしまうんだけど、ぼくたちはこの話を聞いて、それを残念なことと思うばかりか、アキレスを褒め称えたい気持ちになると思う。それは、そのもっと重大な目標というのが、アキレスも言っている『恥』という言葉と深く関わりがあるからだと思うんだ。君もそう思わないかい、クリトン。」

クリトン「全く君の言うとおりだよ、ソクラテス。第一、それのために君は死刑を甘んじて受けるわけだし、ぼく自身としても、もし自分の命よりも大切なことがあるとしたら、『恥』というものが深く関わっていると思う。」

ソクラテス「じゃあ、恥ずかしいことは何であるのか、明らかにしていくことで重大な目標も明らかになっていくわけだ。でもね、クリトン。ぼくは、この恥が何であるのかということを本当の意味で全て明らかにするためには、それこそ時間と労力がどれほどあっても足らないと思うんだ。なぜなら、ぼくはそれを知るために、今まで生きてきたのだし、哲学(フィロソフィー:原語は知を愛するという意味)してきたと言っても過言ではないからなんだ。そことはわかってくれるよね、クリトン。」

クリトン「君がそう言うのならそうなんだろう。聞きたい気持ちはやまやまなんだけど、時間も無いことだし、そのことは君に任せることにするよ。」

ソクラテス「ありがとう、クリトン。感謝するよ。では、簡単に言うと恥とは何なのか。ぼくは、この一言で全て表現できると思う。本当の恥とは、正義や善に反すること。これに尽きると思う。本来ならば、正義や善がなんであるのか、ということも明らかにしないといけないのだけど、これもさっきと同じ理由で簡単に説明するよ。正義や善というのは、よりたくさんの人間が幸福に生きていくこと、神のような明らかに自分より優れたものを敬い畏れること。だと思うんだ。君も同意してくれるかい、クリトン。」

クリトン「もちろん大賛成だ。だから、その先を早く言ってくれたまえ、ソクラテス。」

ソクラテス「そう急かすなよ、クリトン。とりあえずここで、これまでの話を一度おさらいしようじゃないか。もしも、誰かが誰かに憎しみという感情を持つとき、その人は、自分の利害関係からその加害者を憎むことになる。でもこの利害関係というのは、実はある範囲内のことーーー例えば、健康に生きたい、欲しいものを手に入れたい、自分のものを守りたいと思うことなんだけどーーーでしかなかったわけだ。だから、もしもこれらより重大な目標があるならば、憎しみという感情を持つことは決して正義しいことではないということだった。そして、この重大な目標は、正義や善に反さないことに他ならなかったわけだ。だから、もしも、人を憎むということをしたくない、すべきでないと思うならば、自分の命や所有物よりも優先して、まず、この正義や善に反さないよう心がけることが大事だと思うんだ。もちろんそれは簡単なことではないから、普段から正義や善が何であるのか明らかにしたいという気持ちを持つことや、正義や善を忘れないということで少しずつそうなっていくより仕方がないと思う。ぼくは、ダイモーン(神格:ソクラテスは何らかの内なる声がはっきり聞こえたという、あるいは理智による自分の判断のことかもしれない)の助けもあって、なんとか憎しみを乗り越えるだけの重大な目標を持って生きることができた。だから、ひとつはこの理由から、いま僕は彼らを憎む気持ちを持っていない。」

クリトン「ありがとう、ソクラテス。君はやはり素晴らしいよ。」


第四章 もうひとつの憎しみ

ソクラテス「君だって素晴らしいさ、クリトン。でもね、まだ話は終わってはいないんだ。」

クリトン「それはどういう意味だい。」

ソクラテス「君も言っていたじゃないか。自分の利害関係だけで彼らを憎んでいるわけではないって。彼らが不正をなして、つまり、正義や善に反してぼくを死刑にしたから憎いんだって。」

クリトン「確かにぼくはそう言ったし、そうであると思っている。でも、ぼくは今の君の説明で自分の謎は解けてしまったんだ。」

ソクラテス「君がそうは言っても、ぼくにはまだ説明する責任があるんだ。それこそ、今ここでこの続きを言わないことは、ぼくにとってこの上も無い恥なんだ。わかってくれるよね、クリトン。」

クリトン「君には全く驚かされるよ。さあ、続きを言ってくれたまえ、ソクラテス。」

ソクラテス「君ならそう言ってくれると信じていたよ、クリトン。なぜぼくがここで話を終わらせなかったのか。それは、この重大な目標を親身に考えいる人であればあるほど、この重大な目標を持っていない人が気になるし、時によってはそれが憎しみとなることがあるからなんだ。それに、この重大な目標を持つことは、あくまで自分のことでしかなくて、いくら自分が正義や善に反さないことを重要なことと考えても、危害を加える人がいつも正義や善に反している場合、彼を許すことができないという欠点があるんだ。それに、正義や善に反していることそれ自体を憎んでいるとき、この憎しみはいつまでたっても消すことはできない。だから、こういった理由で、まだ話を終わらすことはできないんだよ、クリトン。」

クリトン「今君がそこまで言うと、ぼくにはもう先を聞きたいという気持ちしかないんだ。早くその先を言ってくれたまえ、ソクラテス。」

ソクラテス「よし、じゃあ続けよう。ぼくらは、今、憎しみをなくすためには、重大な目標を持たないといけないということまで明らかにしたのだけど、これだけだと、正義や善に反していることに対する憎しみをなくせないし、それを許せない。これは、クリトン、君や、そのほかぼくの友人の多くが感じていることだと思うんだ。だからこそ、この憎しみが何であるのかを、ぼくたちはもっと理解しないといけないし、それを乗り越える努力をしていくべきだと思うんだ。」

クリトン「もちろんだ。」


第五章 もうひとつの憎しみの在りか

ソクラテス「ところで、例えば何か、不快な音が聞こえてきたとして、これが、人によってなされているものなのか、それとも人以外の動物によってなされているものなか、自然に出ている音なのかを知らないで、その音をなんとかすることができるだろうか。」

クリトン「断じてできない。」

ソクラテス「ならば、ぼくらは、この正義や善に反していることがどこに存在しているのか、ということをまず明らかにしないといけないわけだ。正義や善に反することを人間はするだろうか。」

クリトン「現にそういったことをする人間がいるから君は死刑の判決を受けた。」

ソクラテス「じゃあ、獣や人間以外の生き物はそういったことをするだろうか。」

クリトン「そんなこと考えたこともないよ。」

ソクラテス「もしも、君が獣に襲われたとする。これは、君にとってはきっとこの上も無い災難だろうけど、君はこの獣が不正をしたと思うかい。」

クリトン「いや、きっと思わないと思う。彼らは、考えることもできないだろうし、もしぼくを襲ったとしても、それは生きるため仕方なくやったことだろうと思うからだ。」

ソクラテス「そうだね、クリトン。彼らは、恐らく考えることができないから、ぼくたちの持てる重大な目標はもちろん持てないし、彼らにとっての一番重大な目標は常に健康に生きることであろうと思われる。じゃあ、最後に、神を除くそれ以外のものが正義や善に反することがあるだろうか。」

クリトン「獣にもないのに、それがあるとは思えない。」

ソクラテス「ということは、神を除いては、唯一人間のみが正義や善に反することがあるということになる。それでいいね、クリトン。」

クリトン「人間のみが正義や善に反するということは間違いなさそうだね。ところでなんで神は除くんだい。」

ソクラテス「ぼくたちが信じている神がそんなことをするはずがないし、もし、そういったことをする神がいたとしても、ぼくたちはそれを事実確認することはできない。だから、可能性はあるけれど、除くということを一応言っておいたんだ。このことについて議論していたら、話がどんどんそれていってしまうしね。」

クリトン「確かにそれは言えてる。」


第六章 悪を為す人の気持ち

ソクラテス「話を戻すけど、正義や善に反することは、絶対に人間にしかできないんだ。だから、正義や善に反することを憎むと、必ずそこには人間が関わってくる。そして、正義や善に反することだけを憎んでいたはずが、いつしか人間を憎むことにもなりかねないということになる。これで、正義や善に反することの所在がどこにあるのかということと、その所在が唯一人間であること、そしてこの一致が憎しみの対象を人間にしてしまう原因だということが明らかになったわけだ。ここまで明らかにしてみると、もしも、人間自体と正義や善に反することそれ自体を、全く別のものもとして捉えることができるならば、それは憎しみではない別のものということになると思うんだ。」

クリトン「確かにそうだ。でも、そんなことが本当にできるのかい。」

ソクラテス「できるかどうかはやってみないと分からないし、そもそもぼくは、哲学に不可能はないと思っている。これから、その方法を明らかにしていこうじゃないか。君も手伝ってくれるかい、クリトン。」

クリトン「もちろんだとも。」

ソクラテス「いま、ぼくたちの議論は、人間自体と善や正義に反することそれ自体を全く別のものとして捉えるべきだというところまで進んだわけだ。だけど、この二つは絶対に同じところにあって、そう捉えることは可能かもしれないけど、この二つは全く別のものとすることはできない。なぜなら、何か不快な歌声がするとき、必ずその歌を歌っている誰かがいるのであって、歌が聞こえる限りはどちらかだけを無くすということはできないからだ。ということは、ぼくたちはこのことを明らかにしていくうえで、どうしてそんな不快な歌を歌うのか、それを歌っている人に聞くべきではないだろうか。」

クリトン「もしそういった人がいるならば、その人に聞くのが一番手っ取り早いと思う。」

ソクラテス「そうだね。だけど、今はぼくと君しかしないし、君が不快な歌を歌う人の気持ちになって答えてくれないかい。」

クリトン「そんなことをしたことはないから、その人になり切れるかは分からないけど、やるだけやってみるよ。」

ソクラテス「よし、ありがとう、クリトン。今君は、不快な歌を歌っているけれど、それは歌いたいという気持ちがあって歌っているのかい。」

クリトン「もちろん、そうだとも、歌いたいと思うから歌っているんだ。」

ソクラテス「では、君はなぜそんな不快な歌を歌いたいと思うんだい?。」

クリトン「そんなこと考えたこともないよ。」

ソクラテス「ならば、質問を変えよう。君は、その不快な歌が好きだから歌っているのか、それとも悪意を持って歌っているのか、どっちだい。」

クリトン「質問の意味がよく分からないよ。」

ソクラテス「もし君が、その不快な歌を好きだから歌っているとしたら、君は、そういった、ぼくからすると特殊な趣向があるということになる。そして、周りの人がその歌を聞いて不快であるかどうか、つまり、自分以外の人に迷惑をかけていることには全く関心を持っていないか、それともその歌は誰にとっても快いものだと思っていることになる。これに対して、悪意を持って歌っているとしたら、君がその歌を好きであるかどうかは別として、君は、その歌を歌うことが人にとって迷惑になるということを知ったうえでその歌を歌っているということになる。」

クリトン「ぼくは、その質問に答えることができないよ、ソクラテス。だって、ぼくがその不快な歌を歌っている人にどれだけなりきったって、どっちとも答えることができるんだもの。」

ソクラテス「確かにそうだね。じゃあ、前者、つまり好きだからその歌を歌っている人の気持ちになって答えてくれないかい。」

クリトン「それならできそうだ。」

ソクラテス「君は、もしぼくが、その歌を歌うのをやめてくれと言ったら、それをやめてくれるかい。」

クリトン「もちろんだとも。だけど、ぼくはこの歌が好きだから、君がいないところでこの歌を歌うかもしれない。」

ソクラテス「ならば、ぼくが君に、その歌を歌うと君自身が駄目になるかもしれないと言った場合、君はその歌を歌うことをやめるだろうか。」

クリトン「君の説得が理に叶っていて、自分自身が歌うべきでないと思ったら歌うのをやめると思う。でも、ぼくはこの歌が好きなわけだから、頭ではそう分かっていても、それができないかもしれない。」

ソクラテス「ぼくが思うには、正義や善に反することをする人の一部は、いまちょうど君が言ったような気持ちだと思うんだ。つまり、それをすべきではないということが分かっているのにできないということだと思うんだ。これがひとつ。次に、ぼくの言っていることは理に叶っているんだけど、なにか君に教養が足らなくて、その歌を歌うべきでないということが理解できない場合というのも考えられると思うんだ。」

クリトン「確かに、その可能性もある。」

ソクラテス「こういった人は、その歌を歌うべきでないということがわからない人ということになる。いま君はぼくの話を聞いてくれたわけだけど、もしぼくが君より随分年下であったり、あるいは奴隷であったり、とにかく、そういった外見や身分が君よりもはるかに劣っていた場合、もしそうでないとしても、君に話を聞こうという気すらない場合、君はぼくの話を聞こうとも思わないんじゃないだろうか。」

クリトン「そうであるべきでないとは思うけど、きっとぼくは君の話を親身に聞かないと思う。」

ソクラテス「そういった場合は、自分のからにこもってしまって、自分しか正しいものはいないと思い込み、その他の人からすると不快な歌を素晴らしいと思って歌う人ということになる。じゃあ、最後に、悪意を持ってその不快な歌を歌う人の気持ちになってみてくれるかい、クリトン」

クリトン「よし」

ソクラテス「君はなぜその不快な歌を歌うんだい。」

クリトン「どうだっていいじゃないか、ほっといてくれ」

ソクラテス「名演技だよ、クリトン。人への悪意があって悪いことをする人は、それを必ず隠そうとする。そう、今、君が演技してくれたようにね。だから、今、ぼくが君を問い詰めたところで、きみは『みなに嫌な思いをさせるためにこの歌を歌っているんだ。』という本心を、なかなか言わないわけだ。それを君が白状してくれるまで議論してもいいんだけど、ぼくたちには時間が少ないわけだし、君は、今だけいつものクリトンに戻ってこのことを了承してくれないかい。」

クリトン「もちろんさ、実はぼくも、君とこのことについて議論をしなければならないのかと内心は冷や冷やしていたんだ。だって、君に議論で全て明るみにされてしまうことは目に見えていたしね。」

ソクラテス「よし、これで不快な歌を歌う人の気持ちは大体分かったわけだ。じゃあ、この不快な歌を歌うということを、善や正義に反することとして置き換えてみてくれたまえ。そうすると、
善や正義に反することを知って、理解しているけどそれをできない人、
そもそも善や正義に反することの重要さが分からない人、
善や正義を自分で勝手に決めてしまって結果として善や正義に反する人、
善や正義に反することを敢えてする人、
というのが存在することになると思うんだ。実際の問題ではこれに利害も関係してきてもっと複雑になるんだけど、単純に考えれば、この4つの場合に分けることができると思うんだ。そして、今、ぼくの言った順番が、許すことの簡単な順番だと思うんだけど、君はどう思う。」

クリトン「全くその通りだと思う。」


第七章 山に登る準備

ソクラテス「よし、これで、どうやって善や正義に反することを許していくのか、ということを考えるための準備はできたと思う。なににしても言えることだと思うけど、もしも、何か目的があるとき、準備は必ずしなければならない。今、ぼくたちがやったみたいにね。なぜならば、もしも、山に登ろうとした場合、その山はどこにあって、どのくらいの高さで、その山には登るための道があるのかとか、その山のことを明らかにしないとならない。そして、時間はどれだけ必要なのか、旅費はどれだけ必要なのか、といったことを考えた上でやっと山に登ることができる。もしも、こういったことをしないで山に登った場合どうなるかは、誰にでも予想することはできるよね、クリトン。」

クリトン「もちろんだとも、だから今ぼくたちは議論をしてきたんだ。ところで、準備はできたわけだし、どうやって善や正義に反することを許すのかということを、ぼくは早く知りたいんだ、ソクラテス。」

ソクラテス「クリトン、山に登るときもそうだと思うんだけど、頂上に一気に駆け上がってしまうより、まわりの景色を見ながらゆっくりとその山を楽しむということも大事だと思うんだ。」

クリトン「確かにそれはそうだけど、それは今に当てはまることなんだろうか。」

ソクラテス「もちろんだとも、クリトン。だって、山に登る場合、なぜ自分はその山に登ろうと思ったのか振り返ってみたり、この山はなぜあるのか考えてみたり、いつからこの山があるのか考えてみたりすることは、頂上が近ければ近いほど楽しいことだし、自分にとっても有意義なことだと思うんだ。そう思わないかい、クリトン。」

クリトン「確かにそうだね。その山の頂上が近いからこそ、今ぼくたちはしばらく議論を中止した方がいいみたいだね、ソクラテス、まったく君の提案はいつだっていいものばかりだ。」

ソクラテス「ありがとう、クリトン。じゃあ、しばらくの間、何もしゃべらないで、各々自分なりに思いを巡らそうじゃないか。」

クリトン「そうしよう。といってもぼくたちには時間が少ないわけだからほどほどにしてくれよ、ソクラテス。」

ソクラテス「山を登りきる準備はできたかい、クリトン。と言っても、君のその様子を見ると、ぼくの方が準備に時間がかかったみたいだけどね。」

クリトン「ああ、ぼくには君ほどの知恵はないからね。準備する時間も当然少ないというわけさ。」

ソクラテス「君からそう言ってもらえることほどうれしいことはないよ、ありがとう、クリトン。」

クリトン「ぼくもだよ、ソクラテス。まあ、議論を続けようじゃないか。」


第八章 許すということ

ソクラテス「そうだね。ぼくたちの議論を少し振り返ってみると、まず、誰かを許したい場合、ぼくたちは利害関係に捉われない重大な目標を持たなければならないということだった。しかし、この重大な目標、つまり、善や正義に反さないことを重大な目標とすると、善や正義に反する人を憎んでしまうということだった。だから、この善や正義に反することの所在を明らかにして、これは人間にしかないと分かった。そして、その善や正義に反する人の気持ちになって、これを明らかにしたわけだ。そうだったね、クリトン。」

クリトン「そうだ。そして、これからどうやってそういった人を許すのか明らかにしようということだった。」

ソクラテス「くどいようだけど、それを明らかにする前に、もう一度、自分のことについて考えてみてほしいんだ、クリトン。それもあったから、さっき議論を中止しようと持ちかけたんだ。」

クリトン「それはどういう意味だい。」

ソクラテス「今まで、自分のことと、善や正義に反する人についてのことを、あたかも別のことのように議論してきたわけだけど、よく考えてほしいんだ。実はこのふたつは全く同じことでもあるんだ。だって、人を許せない、つまり、その人にある種の害意を持つことは、恥ずかしいことであって、善や正義に反することに他ならない。だから、その人を許せないうちは、何かしら自分に善や正義に反する部分があるか、善や正義を本当の意味で知っていないからに他ならないからなんだよ、クリトン。」

クリトン「それは確かにそうだけど、それだと、議論がどうどうめぐりしてしまうんじゃないかい、ソクラテス。」

ソクラテス「その通りさ、だからこそ、今それを明らかにしておいたんだ。善や正義に反する人を許すためには、いつだって自分を振り返らないとならない。これから明らかにしていく、善や正義に反する人を許すために大事なことは、まず、他でもない自分が善や正義に反さない人であることなんだ。」

クリトン「全くその通りだ。」

ソクラテス「じゃあ、そのことを忘れないようにして、善や正義に反する人のことについて考えていこう。さっきも言っていたけど、一番許すことの簡単な人は、善や正義を重大なことと知ってそれを目標にはしているけどそれができない人、ということだった。この人を許すことは簡単なはずなんだ。だって、クリトン、今の君自身が、人を憎むことをしたくないと頭では分かっているのに、それをしてしまっているからなんだ。その人が自分と同じ境遇だと思えば、その人を許すことはできていくんじゃないだろうか。」

クリトン「もちろんだとも。」

ソクラテス「次に、善や正義について理解できないために、結果として善や正義に反してしまう人について考えてみよう。でも、実はこれもさっきと同じことが言える。君は、善や正義に反することの何かしらの一部を理解できていないために、そういった人を憎んでしまっている。このことにも同意してくれるよね、クリトン。」

クリトン「同意するよ。」

ソクラテス「人の話を聞く気がなくて、結果として善や正義に反する人についてはどうだろう。こう考えることはできないだろうか、彼らも、善や正義のある一部分、つまり、それは特に人の話を聞くということや自分に対して過剰な自惚れを持つこと、そういった善や正義を知らなかったり、できなかったりする人に他ならないんじゃないだろうか。そして、これは敢えて善や正義に反する人にも言えることだ。彼らは『人に迷惑をかけてはならない』という重大な善と正義を全く無視しまっているだけだ。そうやって考えてみれば、彼らも同様に許すことができるんじゃないだろうか。」

クリトン「だけど、ソクラテス、それじゃあぼくはいったいどうやって彼らを許したらいいんだい。」

ソクラテス「もう答えは出ているじゃないか、クリトン。もっと深く善や正義を愛していけばいいんだよ。憎しみといった感情を持つことは、善や正義に反することに他ならないんだから、そういった感情を持っているうちは、例えば、戦場で敵を目の前にして、50歩後ろに逃げた人が100歩後ろに逃げた人を笑うことと同じだし、同じどんぐりがその大きさを比べて俺の方が大きいと言って争っているようなものなんだ。」

クリトン「ぼくは、ますますどうしたらいいのか分からない。」

ソクラテス「ぼくはこう思うよ、クリトン。まず、そういった人たちは、大なり小なり自分と同じだと思うこと。そして、そういった人たちのことを何よりもまずかわいそうな人だと思うことが大事だと思うんだ。例えば、君は、ぼくが死刑にされることに同情してくれている。ちょうどそういった気持ちを持ってあげることが大事だと思うんだ。いま、ぼくは表面的には人から与えられた状況で、死刑の判決を受けたけど、そういった人たちは、何らか神から与えられた状況によって、善や正義という最も大事なものを兼ね備えていない人たちなんだ。もしも、神の意思によって、君は善や正義を愛する気持ちを持てないということになったらどう思う。」

クリトン「もちろん、絶望する。」

ソクラテス「彼らはまさにそういった状況にある人たちなんだ。ただし、彼らの場合は、それをそもそも知らないから絶望という気持ちはないわけだけど、いずれにしろそれはとてもかわいそうなことなんだ。もしも、君が善や正義を本当に愛しているならば、それを持っていない人を君はなんてかわいそうな人なんだと同情するはずなんだ。だけど、君の善や正義への愛が足らないばかりに、その人が自分に及ぼす危害の方ばかりに目を向けてしまっている。だから、君が本当の意味で善や正義の方に目を向けるならば、彼らを憎むより先にかわいそうだと思うはずなんだ。」

クリトン「わかってきたよ、ソクラテス。じゃあ、ぼくの彼らをどうにしかしたいという気持ちをどうすればいいんだい。」

ソクラテス「ぼくは、一度だけ善や正義について忠告してあげるというのが一番いいと思うんだ。彼らをそういった状況にしているのは神なんだから、ぼくたちがどうこうできることじゃない。君は、まさか神が自分よりもはるかに劣っていると思うかい。」

クリトン「とんでもない。」

ソクラテス「ならば、彼らを自分でどうこうできないのは目に見えている。だったら、あとは神に任せればいいじゃないか。もしも、神が彼らに善や正義を与えるのならば、一度の忠告を素直に聞き入れてくれる。そうでないのなら、もうどうすることもできない。君はひたすら、その人たちに善や正義が与えられることを心の中で願い、そして、今それがない彼らに同情してあげること。あと、自分自身ももっと深く善や正義を愛する努力をすること。これが一番いい方法だと思う。」

クリトン「ありがとう、ソクラテス。君のおかげで自分がどうしていくべきなのか分かったような気がするよ。そして、そんな君にもう会えないかと思うと、何よりも残念でならない。」

ソクラテス「心配するなよ、クリトン。また会えるさ、ぼくは一足先にあの世で君を待っているよ。」


あとがき

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