53.荀子 現代語訳 儒効第八 二章

二章

 秦の昭王が孫卿子(荀子のこと)に問うて言った。儒とは人の国に何の利益もないのだろうか。

 孫卿子は答えて言った。儒者とは、先王を模範として礼と義を尊び、臣下や弟子を慎ませて、目上の人を貴ばせる人のことである。人の主たる人がこの儒者を用いるならば、その国の威勢を保ってよろしくし、もし用いられなかったとしても、自分から退いて百姓の一人となり、素直さを保って必ず下に甘んじるのである。困窮して凍え飢えるようであっても、悪事を行って貪るようなことはなく、針の先ほどの土地も持っていないのに国家を保持する大義を明らかに示し、彼の声に反応する人がいないくても、多くの財物を生み出して百姓を養うための知識に通じている。仮に、この人に時勢や運が加勢するならば、王公たるべき人物であり、人の下に居るならば国家を保つ家臣、そして何より国の宝である。(●勢の人の上に在れば則ち王公たるの人材なり、人の下に在れば則ち社稷の臣・国君の宝なり)雨漏りのする小屋に隠れていたとしても、多くの人がこの人を貴ぶのは、道が誠にそこにあるからである。(●窮巷漏屋に隠ると雖も、人のこれを貴ばざる莫きは、道の誠にここに存すればなり)

 孔子が魯の司寇(刑罰担当の大臣)になろうとしたとき、沈猶氏は羊を売りに行く前に水を飲ませて目方を多くすることをやめたし、公慎氏は不貞の妻を追い払い、慎潰氏は贅沢放蕩するためによその国に逃げ、魯の国で牛や馬を売ろうとする者はその値段をごまかすことをしなくなった。これは、孔子が普段から自分の身を正してその時を待っていたからである。

 孔子が闕党に居た時は、闕党の子弟が魚を網で取って後で分配する時、親のいる人から多くの魚が分けられるようになった。これは、孔子が普段から親孝行で目上の人を敬うことを忘れなかったことによって皆が感化されたからである。

 儒者は、政治に携われば政治を美しくし、下位であったとしても習俗を美しくするのである。儒の人が下にあればこのようであるのだ。

 王は言った。そうであるならば、その人が上(王などの君主)となったらどうなるだ。

 孫卿子は答えて言った。その人が上にいたら広大である。心と思いはそれぞれの人の内で定められて、礼節が政治をスムーズに運行し、法則度量は役人の間で正しく行われて、忠信愛利が民衆の間で活発となる。(●其の人の上たるや広大なり。志意は内に定まり礼節は朝に修まり、法則度量は官に正しく忠信愛利は下に形わる)一つも不義なることは行われず、一人も無罪の人を殺してまで天下を獲ろうとはしない。(●一つにても不義を行い、一人にても無罪を殺して天下を得ることはこれを為さず)これは、その人の義が皆に信じられて、世の中すべてがうまく治まるからである。

 だから、この国に住んでいる者はその平和と豊かさを謳歌して楽しみ、この国に住んでいない者は足をつまづかせて急いでこちらに赴き、世の中全てが一つの家のようになって、法律や政令は守られないということはない。このようにできるならば、この人を師と言う。詩経 大雅・文王有声篇に「東からも、西からも、南からも、北からも、心服しない、ことはない」とはこのことを言ったのである。

 もしも、儒の人が下であるならこのようであり、上であるならこのようである。どうして、その人が国に利益が無いなどと言えるだろうか。

 昭王は、善し、と言った。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最近、和訳が少し早くなってきた。約一時間で、一日3ページ分進むので、途中でやめなければ、半年後に全部終わる予定。

■この最後に挙げられた詩経の一節が、私を驚愕させ、そして虜にした王道の一端である。文王が西で征服戦争をすると、東の人が怨んだと言う。つまり、こちらを先に征服してくれということである。当時の政治だと、仁や文明のあるなしで、その生活は雲泥ほども違っていたのだろう。

■「儒」を、今日、恐らく初めて、漢和辞典で調べてみた。人偏と、雨と、ひげで、柔らかくしめった感じの人という意味なのだそうだ。私は、人偏と需で、「待つ人」というのもあると思っている。需(水天需)は、易経で水が天上にあって人々を潤すのを待つ象として記述されている。だから、儒者は、徳という水を蓄えて待つ人であると思う。