2.学問のすすめ 現代語訳 初編 第二段落

初編 第二段落

 学問というものは、ただ難しい字を知って、理解するのが難しい古文を読み、和歌を楽しんで、詩を作るなどといったような実のない文学をいうものではない。これらの文学は、人の心を楽しませて随分よろしいものではあるのだけど、昔から世間で儒者や和学者が言うほどあがめて尊ぶほどのものではない。

 そもそも、昔から、漢学者で家のことをうまくやる人は少ないし、和歌が上手で商売も巧みな町人というのもほとんどいない。このために、心ある町人や百姓には、子供が学問に没頭し出すと、そのうち貧乏でなんともならなくなってしまうのではないかと心配する人もいる。これは無理もないことである。

 こういったことは、つまるところ、その学問が実益に遠くて日用の便利にも間に合わない証拠である。そうであるならば、これらのような実益を生まないような学問は後にしておいて、もっぱら専念すべきは人間の日用生活に有用な実学である。

 たとえば、いろは四十七文字習って、手紙の書き方、帳簿の付け方、そろばん(計算)の練習、天秤(はかり)の使い方などを心得ることなど、このほかにも進んで学ぶべきことはとても多くある。

 地理学とは、日本のことはもちろん世界中の国の風土の道案内である。究理学(自然科学・理科)とは、天地万物の性質を見てその働きを知る学問である。歴史とは、年代記の詳しいもののことで、世界中の今と昔のあり様を詳しく知る書物である。経済学とは、一身一家の世帯から天下の世帯を説いているものである。修身学とは、身の行いを修めて人と交際してこの世を渡るための天然の道筋を述べたものである。

 これらの学問をするのに、いずれにしても西洋の翻訳書を調べて、だいたいのことは日本の仮名をうまく用いて、あるいは才能のある子供には横文字(西洋語一般のこと)をも読ませて、ひとつの科目ひとつの学問にも事実を押さえさせ、そのものごとに従事させ、近くは物事の詳しい道理を求めさせることによって、今日必要なことを成し遂げるべきである。

 今述べたことは、人間の日常で必要な実学であって、人であるならば貴賤上下の区別なく皆が皆たしなむべき心得であるから、この心得があってのち、士農工商各々での職務を果たして銘銘の家業を営むことができるようになり、身も独立して家も独立して天下国家も独立することができるのである。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■ここでは、ちょっと日本古来の伝統や学問をないがしろにし過ぎているように感じられる。だが、それは、このとき(明治維新のとき)だったからであって、むしろ現在では儒学や和学といったものこそ尊ばれるべき時代になったと思う。やや、皮肉かな、福沢諭吉もここまで日本が西洋に浸食され、日本文化がここまで廃れるとは想像すらできていなかったのだろう。ただ、これは時代がそうさせていたのであって、例えば、真黒なキャンパスを半分だけでも白色にしたいと思ったら、相当な量の白い絵の具が必要である。そのように、白い絵の具を大量にぶちまけたということだろう。

ソクラテスも、学問は実用に止まるべきと「ソクラテスの思い出」(クセノフォーン、岩波文庫)で述べている。これは君子学という見地から述べたもので、少し主旨は違うのだが。「天文学や数学は、方角や土地を計算できる程度にとどめるべきである。たとえば、彗星などの軌道が難しい天体を知ることは、一生を費やすに十分であるのに、生活の上でなんの役にも立たないからである」現在は、こういったことを知る専門家がいることによって、この文明社会が成り立っているわけである。マルクスの言葉を借りれば、「社会的分業」ということになろうか。

■前回にも述べたが、福沢諭吉が「大学」に代表されるような儒学の「本立ちて道生ず」という考え方を大事にしていた、または重宝していたことがよくわかる。

■福沢の提唱が現代の教育にかなり大きな影響を与えていると思われるようにも感じられる。


要約

では、どんな学問をしたらいいのか。一言で言ってしまえば、虚学でなくて実学をすべきである。そして、実学とは実際生活に役立つ学問のことで、基本は文字の読み書きである。もしも、皆が銘銘にこの実学を修めれば、まずその身が独立し、その家が独立し、そうして天下国家も独立することができる。