社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉を読んで

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

良い本だった。

書いてある内容が多岐に渡って有用である。というか、この著者の方も言うように、学問というのはすべて分野が密接不可分に結びついており、これらを切り離して考えることは本来できないはずである。

しかし、現代では、専門性が増すあまりに、政治学者のことは政治のことしか知らないし、哲学者は哲学というかカントならカントのことしか知らないし、物理学者は物理のことしか知らない、というようないかにも偏狭な学者が増えていると思う。

この著者の方は、これらの、専門性があまりにも増した学術分野は、もはや、学問でなくて技術を取り扱う分野に成り下がっていると言っているが、実にそのとおりであろうと思う。

内容としては、存在意義的哲学、社会学政治学、心理学など、とにかく多岐にわたる分野を飛び越えて、すべてのことに通ずるようなことが書かれている。そのようなわけで内容はまとめられないので、この書に限っては、実に他の方にも読んでみてもらいたいと思う。

とはいえ、ある程度内容を出さないと腰も上がらないと思うので、この著者の方の「日本人論」についてだけ、簡単に紹介しようと思う。


この著者の方曰く、

日本は<閉ざされていた>からこそ<開かれていた>。
日本は<鎖国>していたからこそ<文明開化>できたし、近現代の<西洋化>は実現した。

とのことである。


これはこの文章を読んだだけでは意味が分からないと思う。

そもそも、なぜ、日本人は、日本人であるという認識を保ったまま、日本のアイデンティティである四書五経を捨てて、また着物を捨てて、奥ゆかしい日本食を捨てて、西洋化できたのであろうか。

このように言うと、ほとんどの人は「日本人は変わっていない」と言うであろう。しかし、もしも江戸時代の日本人を数人現代に連れて来れば、言葉以外で、文化に共通点のひとつも見いだせないであろうと思う。

着物も違うし、食べ物も違うし、習っている学問も違えば、生活様式も全く違う。必ずや、「言葉とまばらに残っている木造建築以外は全て違う、その言葉も書く時は横書きがメインでこれも違うような気がするが」と答えるだろう。

これほど変わっているのに、どうしてわれわれは、江戸時代以前から脈々と続く日本人と自分のことを思っているのだろう。また、自分が日本人ということに疑いも持たないのであろう。もはや、文化面でわれわれは西洋人なのではないか?この問に、しっかりと真正面から取り組み、私が思う限りでは不可逆的解決、つまり間違いない回答を示すのがこの本なのである。

答えを知りたい人は、ぜひともこの本を読んでほしい。絶対損はしないので。

アメリカ大統領

アメリカ大統領がトランプ氏に決まったようだ。

まあ、そもそも政治家という種類の人は、権力欲や人の前に立ちたいという欲求、自己承認欲求が人並み以上に強い人であることは誰もが納得していただけると思う。

例えば、世の中の役に立ちたいという「かなりご奇特」な志を持っている方は、日本中にも五万といるだろうけど、その全員が全員、「政治家になりたい」と思うわけではない。というのも、ミュージシャンになると言うのもアリだし、科学者でもその志は実現できる。だから、選択肢はあまたあるわけである。

このような選択肢が多い中から政治家になりたいとするのだから、つまり、政治家になりたいという人は、二世や三世で、家督の流れでそうなった人を除いては、全て例外なく「(世の中の役に立ちたいうかなりご奇特な志を持っている方のうちで)権力欲や自己承認欲求が強い人」ということで間違いないのである。

この上で、トランプ氏とクリントン女史の違いであるが、要は「表向きには権力のために大統領になりたいとはしないのか」あるいは「もうぶっちゃけで権力のために大統領になりたいのか」程度の違いではないかと思う。

どっちもどっちで、結局、アメリカ国民のためにアメリカ大統領になりたいというわけでは無いであろうということだ。オバマ氏も、実は自著で自分が政治家になりたいと思ったのは、自分を捨てた実父を見返したいというようなコンプレックスが関係しているのだろうと、このことを認めている。

こう考えてくると、どっちが大統領になっていたとしても、それほどこれからのことに違いは出てこないだろうということだ。


また、今回の選挙で、私が面白いなと思ったのは、「アメリカ国民がメディア(の見解)を信じていない、あるいは完全には当てにしていない」ということが明らかとなったことだ。アメリカのほとんどのジャーナリストやメディアが「トランプはやばい」とあれほど言っていたのに、それが覆されてしまった。これはつまり、もはや、彼らの意見が鵜呑みにされていないということの証明ではないか。もう、情報操作はあまり功を奏さないメディア形態になってきたということだろう。


次に、世の中の流れは「今」ナショナリズムに傾いているということである。トランプ氏は「メキシコとの国境に万里の長城を作る」みたいなことを言っていたらしい。また、イスラム教徒は受け容れないとかも言っていた。このへんの発言がクリントン女史との大きな違いであったと思うが、このようなナショナリズムの流れ、あるいは、反グローバリズムの流れが、勝敗を分けたひとつの要因だろう。イギリスの国民投票もそうであった。


このへんまでは、どこにでもある意見で、私独自の見解ではない。つまり、これから私独自の見解を述べたいのだが、何が言いたいかと言えば、毎度のことであるが、「今のままでは、誰が大統領になろうと、総理大臣になろうと、人々の不満や不安が解消されることはない」ということである。もはや、資本主義民主主義体制は、今の実態にはそぐわないのだ。

資本主義は、「工業や商業の発達」という点では、非常に有効なシステムで、事実として人類の生活水準は、資本主義によって相当に上がった。自動車も電気も洗濯機もない江戸時代の生活水準に戻りたいと思うような人は一人もいないだろう。そして、そんな生活は想像もできないだろう。これは資本主義の功績である。

しかし、現在、もはやこれ以上の生活水準の向上は望めない。機械や設備を増やすことで、生活水準は上がるだろうか。これ以上生活水準を上げようとすれば、手塚治虫のマンガよろしく、ロボットが家事全般をして、人はカプセルのような歩行器に乗って生活するしかないだろう。だが、そこまでは望んでいないというのが、人間の本能であると思う。自分の世話は自分でしたいし、そんな便利なロボットができてしまったら、「誰かを手伝ってあげること」もできない。もはや、誰の手助けも借りず、誰を手助けをもせず、生活することになってしまう。もちろん、こういったことが無くなれば、家族も必要なく、いたとしても言葉を交わすことも無くなるだろう。このような、生き地獄ならぬ、生き天国で生活したいと思っている人は、それが無意識的なものであるにしても、絶対にいないはずだ。

このようなわけで、もう「発展」や「物的に豊かになることによる生活水準の向上」は誰も望んでいないわけである。ならば、「工業や商業の発達」に適していた資本主義はもう用済みなのだ。なのに、現実としての枠組みは資本主義のままというのが現在で、これは聖書に言う所の「古い革袋に新しい酒を入れている」ような状態なのである。

さらに、資本主義の不利益はこれのみではない。資本主義は「人の仕事を奪う」のである。というのも、資本主義で重要なのは儲けることであり、儲けるためには人の賃金を減らさなければならず、人の賃金を減らすためには仕事を機械化して、効率化しなければならないからである。仕事が機械化され、効率化されれば、必ずや「人の仕事の総量」は減るであろう。つまり、資本主義というシステム自体が、人から仕事を奪うシステムなのである。

ここで、トランプ氏の勝因のひとつであるナショナリズムの話に戻りたい。というのも、トランプ氏を支持したのが、まさしくこの「人の仕事を奪われてしまった白人労働者」であったらしいからだ。つまり、これらの人は、「メキシコから移民が来る⇒移民が安い賃金で働く⇒自分の仕事が取られる」と思っており、この考え方から、「メキシコから移民が来なければいい⇒移民を受け容れてはならない⇒ナショナリズム」となっているのである。ちなみに、TPP反対も同じような論法である。

しかし、少し前の私の見解を思い出して頂きたい。彼らの仕事を奪っているのは、本当はメキシコ人移民ではなくて、資本主義なのである。

あらあらびっくり仰天で、自分がなんとかして良くしたいと躍起になっている「景気」と、それを作り出す「資本主義」こそが、自分の仕事を奪う元凶というのが事の真相なのだ。

では、なぜ、誰も資本主義を責めないのか。答えは簡単、見えない敵は攻撃できないからである。彼らは、自分の真の敵である「資本主義」を敵として認識できないため、見えやすい敵(本当は敵ではない)メキシコ人移民や安い中国からの輸入品や「グローバリズム」を敵として攻撃しているのである。こうすることによって、自分の不満をまさしく「八つ当たり」で解消しているのだ。怒りの矛先がない怒りほど、人の心を乱すものはない。

だから、資本主義という古い革袋が新しい革袋にならない限り、必ずや不満が噴出する。そして、今回のように「不満のはけ口を作ってくれるだけの、明らかな悪者」が代表者として選ばれていく。

また、だからこそ、「今」はナショナリズムという流れということでしかないのだ。新しい革袋がないまま、完全なナショナリズムに移行したとしても、必ずやまた不満が噴出し、今度はグローバリズムが正しいという流れになろうだろう。予言と言うか、私にしてみれば、もう目に見えて分かりきったことである。

ちなみに、世の中には、この「新しい革袋」が何か知っているようなフリをして、人々を惑わす人がいるが重要性の格が下がってしまうからほんとにやめて欲しい。私はハッキリ言う、私はこの「新しい革袋」がどんなものか全然わからないし、わかっている人も恐らく今のところはいない。だいたい、期待を寄せて調べてみると、オカルトか、詭弁家の言説ばかりである。

蓮舫女史の二重国籍問題について

この問題がまだ話題となっているけど、どうも意味が分からない。

というのも、もし仮に、二重国籍であることが党の代表であることの欠損事由になるのならば、そもそも、二重国籍で国会議員になることがおかしいということになろう。

ならば、蓮舫女史は、(そういった法律があるのならば)その法律で裁かれるべきである。日本は法治国家であるし、例え二重国籍であろうと、日本に住んでいる以上は、郷に入りては郷に従えで、日本の法律を守らなければならないはずだ。

さらに言うなれば、このような違法状態が続いていたとしたら、このことを国会で追求しなかった自民党公明党にこそ、その責があるということになる。もっと言えば、この法律違反を精査していなかった、選挙委員会などにも責任がある。責めるべきは本人よりこっちである。

なのに、そういった批判は聞いたことがない。

また、そもそも法律違反ならば既に処分されているはずだ。だから、事実そういった処分がくだされていないのだし、二重国籍が理由で党代表になる資格がない、という議論は、一切の空論で、ただの言いがかりやイチャモンのレベルを越えないということになる。


しかし、いや、問題はそこではない、ということなら分かる。

蓮舫女史は、過去の自著などで、自分の二重国籍を売りにして、これを宣伝に使っていたようだ。それなのに、この話題が炎上して、バッシングを受け始めた途端に、「いやいや、私は二重国籍ではないから」と言い出すのは、あまりにも虫が良すぎる。
都合のよいときには、「私は二重国籍だから」と言って、都合が悪くなると、「私は二重国籍ではない」と言う。

これは、蓮舫代表が「対決」しなければならないはずの、安倍氏のやり方と同じではないか?

都合の悪いときには、「アベノミクスは志半ばだ」と言って、都合のいいときには、「これはアベノミクスの効果だ」と言う。

このようなことを主眼として批判するならば、これは非常に当を得ているし、これこそ真の大問題である。

この私の考えが間違っていなければ、今後の与野党「対決」は、どんぐりがどんぐりと背比べをして、戦場から五十歩逃げた者が、百歩逃げた者をバカにするようなものになるだろう。

同族同列同等の争いでは、いつまでたっても足の引っ張り合いが無くなることはない。

論点を間違えた議論しか話題にならないことも含めて、実に先が思いやられる。

丸山真男の思想史学を読んで

丸山真男の思想史学 (歴史文化ライブラリー)

丸山真男の思想史学 (歴史文化ライブラリー)

丸山真男はよく名前を聞くので、読んでみた。

本当は、本人の著作を読みたかったのだけど、不幸にして図書館に蔵書が無いため、やむを得ずこれを借りて読んでみた。

ほぼ予想通りのことだけど、「思想」という抽象的で、著述が難解なものをさらにまとめた本であるので、当然のようにあまり意味が分からなかった。

ただ、丸山の思想体系をうまくまとめようとしている姿勢は見えるし、各著作のハイライトをうまく抜粋してあることは間違いないので、丸山真男の著作をいくつも読んだことがある方なら、興味深く読めると思う。


上述したようにダイジェスト的なものなので、あまり意味が分からなかったのだけど、その上で、

丸山が元は儒学の研究をしていたこと、福沢諭吉にも傾倒していたことが興味深かった。

超国家主義大衆社会の分析は、当てはまると思われる部分も多く、詳しく読んでみたいと思った。また、ここには、第二次大戦時に30代で、戦前戦後を生きた人ならではのリアリティがあり、この点でも非常に興味深い。

また、儒学の研究をしていたこともあってか、あるいは、これがこの世の真理なのか、中核となるような理論体系の根底には、陰陽思想がかいま見えた。といっても、これは、ヘーゲル弁証法などの正反合と同じものなので、マルクスの影響と言う人もいるだろう。

この本においては、そういった古典との関係での解析はあまり行われていないように思う。

というか、人の類型からして、政治思想とかが好きな人は、古典や宗教に興味を示さない傾向が強く、逆に、古典や宗教が好きな人は政治思想に興味を示さない傾向が強い。

というのも、政治思想というのは、一種の類型化で、思想を型に押し込むようなものであり、普遍性でなくて特殊性が主な解析対象となっていることがあろうだろう。宗教や古典は、全てのものに共通する普遍性を見出すむしろ一般化である。

こういった考え方こそ陰陽思想的な考え方なのだけど、丸山もこういった考え方がいたるところに見えるということだ。

またそのうち本人の著作を読んでみたい。

ヘイトスピーチ対策法について

最近、ツイッターネトウヨネット右翼)らしきアカウントが次々と凍結されていて、何が起きたんだろう?と思っていたら、どうやら、ヘイトスピーチ対策法の施行に伴って、そういったアカウントが凍結されているようだ。

ちなみに、凍結とは、アカウント使用停止のことである。使用者からすると、運営から一方的にログインできなくされてしまう現象のことだ。

そして、なぜ、私がそれが分かるかと言うと、電子書籍を宣伝するツイッターアカウントを管理しているからだ。宣伝用なので相手の素性は一切関係無しでフォローをしている。この上で、凍結をされると、強制的にフォロー0になるため、こちらとしても、どのアカウントが凍結されているのか分かるわけである。

最初は、フォロワー増殖ツール、つまり、自動的にフォローとリムーブ(フォロー解除)を繰り返すようなプログラムを使っていると凍結の対象になると思っていたのだけど、どうもそうでもないような感じなので、よくよく観察してたら、上記のことが分かってきた。

そうゆうアカウントはたくさんあったので、ツイッターの運営もけっこう大変だろうなぁと思う。

またこれと関連して、この前、桜井誠氏(橋下氏と胸ぐらをつかむ討論をして少し話題になった人)というネトウヨの親玉みないなのが都知事選に出ていたので、なんで出るんだろう?と不思議に思っていたのだけど(というのも、知名度はまあ高いが絶対に当選しないから)、この法律の施行が関係していたのか、とちょっと腑に落ちたのだった。

次にネトウヨネット右翼)が何か、という問題であるが、「偏重なナショナリストで、やたらと政治関連の発言をして、よく人に突っかかるのだが、発言の内容は、誰かの受け売りか、わけの分からない陰謀論が多く、ネトウヨ同士では仲が良いのだが、基本的にまともな議論や会話はできず、普通の人は関わりたくない感じのネットユーザー」と言うと少し分かりやすいかもしれない。

また、俗に言うサヨクは、「偏重なナショナリスト⇒偏重な平和主義者」という感じになる。とにかく、どちらも対話ができなくて、人の話を聞く気がないというのが共通点と言える。

次にヘイトスピーチが何かという問題であるが、これは、「勝手な決め付けが根拠の言いがかりな上に大げさな悪口」と言うと分かりやすいかと思う。これに、加えて差別がある、つまり、出自や国籍だけで相手を決めつけて攻撃的な悪口を言うのがヘイトスピーチだ。「偏重」「対話ができない」「人の話を聞く気がない」という点で、ヘイトスピーチそれ自体、ネトウヨサヨクのネット上の発言と共通点も多い。

ヘイトスピーチに関する私の考えは以下
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20140806/1407295281

ヘイトスピーチ対策法の条文はまだ官報でしか公開されていないが、以下のサイトでいつか全文公開されるはずである。
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxsearch.cgi

ユング的悩み解消法を読んで

これはいい本だったと思う。

というか、ユングフロイトの心理学は、一度もそれらしい書物を読んだことがなかったので、知らない分野のことを知れたという意味で、かなり興味深かった。

著者の方もユングについてかなり詳しいようで、最近読んだ中では、間違いないく著者の方が専門家であるように思われた。つまり原書(ユングの本)の原書(ユングが参考にしていたと思われる本)にも当たっていることが伝わってきた。

本の内容としては、ユング心理学の紹介本とも言える。しかし、その後の研究や臨床結果も生かしてあり、「モバイルイマジネーション」という方法を使うことによって、読者の深層心理的な悩みを解決に役立ててもらおう。というものだった。

だいたいの構成としては、2人の「モバイルイマジネーション」を紹介して、これを巧みに例としながら、ユング心理学やモバイルイマジネーションの方法を紹介していき、最後には、一遍の小説を掲載し、これをさらに解析するというものだった。

ただ、この夢解きというか、イマジネーションの解析は、とてもではないけど、素人にできるものではなく、この本1冊では不十分な解析しかできないかなという気がした。しかし、これに関しては、著者の方も「簡単に使えるツール」を用意してくれていて、これはイマジネーションでの動きを、クンダリニー・ヨーガの段階になぞらえて、解いていくというか、基準を作って判断してく方法で、確かに「集合的無意識」を使う方法よりは、簡単に使えるツールであるとは思った。つまり、高次の行動様式が読み取れるようになってくるまで、イマジネーションを続け、無理に読み解かなくてもいいから、高次の行動が登場するイマジネーションを続ける。ということになる。また、高次の行動が出ていること自体が成果であると言える。

新しく知ったこととしては、ユングの心理学については、「深層」心理学で、これは間違いなく一線を画した分野なんだなと思った。次に思ったのが、陰陽思想である。ほんとに、嘘でなくて、ユングの心理学を習得したいのなら、易経を読み込んだほうが早いと思うくらい、陰陽思想の重要点がユングの理論体系の中核を成しているように思われた。まあ、陰陽思想も難しいので、直接ユング心理学を習ったほうが早いのかもしれないけど、いずれにせよ、陰陽思想を理解せずして、ユングを理解するのは不可能であろう。かなり密接な関係にあることは間違いない。

また、「集合的無意識」を使った深層心理の解析方法は、易で占いをする際のやり方に非常に似ている。というか、ほぼ同じと言ってもいい。

どのへんがどのように、陰陽思想と共通点が多いのかというと、まず、ユングの言うところの、集合的無意識は、私が言うところの道理と同じでものであるのだ。しかし、これらは陰陽関係、つまり、裏表の関係にあるので、個人の内側(集合的無意識)として認識するのか、個人の外側(道理)として認識するのかで、その認識の仕方もちょうど裏表のように逆に現れてくる。つまり、個人の内側だと無秩序であるが、個人の外側だと秩序なのである。だから、無秩序の調和ではなく、秩序と無秩序の調和が重要ということになる。だいたいのことはこんなところだけど、詳しいことは、またユングの本を読むことがあったら考えようと思う。とはいえ、こうゆうことはもう私の手を離れているので、今のところはこれ以上考える予定はないことになる。